デジタル版「実験論語処世談」(38) / 渋沢栄一

7. 粗衣疏食奨励に非ず

そいそしょくしょうれいにあらず

(38)-7

子曰。飯疏食。飲水。曲肱而枕之。楽亦在其中矣。不義而富且貴。於我如浮雲。【述而第七】
(子曰く、疏食を飯ひ、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす、楽み亦其中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し。)
 茲に掲げた章句も少し逆戻りになるのだが、この章句は兎角誤解され易く、孔夫子は世間に向つて粗衣疏食を勧め、つまらぬ食物を口にし、水を飲み、肱を枕にして生活せねば、真正の楽みは得られぬものだと説かれたかの如くに解釈され勝だ。然し、これは宋朝の儒者によつて取られた誤つた見解で、「疏食を飯ひ……」からの前半の句は、後半にある「不義にして富み且つ貴きは、我れに於て浮雲の如し」の句に対照する為に用ひたもので、不義を行つても富貴利達を求めようとするのは人として恥づべき事で、毫も楽しいわけのものでは無い。それよりは寧ろ水を飲んで疏食し、小さな陋屋に肱を枕にして暮す方が遥に楽みなものであると言はれたに過ぎぬのである。
 実際、粗衣疏食するのみで陋巷に住居して暮すのが人生の理想であり、富貴は浮雲の如きもの故之に一顧だにも払つてはならぬものだとすれば、これまでも屡々申述べ置ける如く、孔夫子の命のままに博く民に施して如何に衆を済はうとしても之を実現し得られ無くなる。不義によつて得る富貴は浮雲の如くであるから、不義をしてまでも富貴を得んとする必要は無いが、義により理によつて富貴を求むるのは、決して悪い事でも無ければ賤しい事でも無いのだ。
 真の富貴を得んとする道は、知識を獲得したり技術を修得したりするのと同じで、猶且致知格物に待たねばならぬのである。調査もし、研究もし、頭を充分に働かしてからで無いと迚ても真の富貴は得られぬものだ。不義や誤魔化しで富貴を得ようとしても到底できるものでは無い。仮りに何かの拍子で一時の富貴を得られたにしても、それは浮雲の如きものであるから、忽ち飛んで消えてしまふのである。私が理化学研究所の設立に骨を折つて奔走したのは、個人を富ますにも国家を富ますにも、致知格物が其根柢にならねばならぬものだと思つたからの事である。理化学研究所の設立によつて知を致し物に格れば、之によつて富を増進する道が自ら発見され、博く民に施して能く衆を済ひ得らるるやうになるでは無いか。徒らに宋儒の解釈に囚れて、孔夫子は人に富貴を賤む心を起させようとせられたものであるなど考へてはならぬ。

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デジタル版「実験論語処世談」(38) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.284-290
底本の記事タイトル:二六九 竜門雑誌 第三六四号 大正七年九月 : 実験論語処世談(第卅八回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第364号(竜門社, 1918.09)
初出誌:『実業之世界』第15巻第10,12号(実業之世界社, 1918.05.15,06.15)