デジタル版「実験論語処世談」(39) / 渋沢栄一

1. 禅学や老子は好まず

ぜんがくやろうしはこのまず

(39)-1

子曰。加我数年。五十以学易。可以無大過矣。【述而第七】
(子曰く、我れに数年を加して、五十以て易を学ばば、以て大過無かるべし。)
 茲に掲げた章句も「子、雅に言ふ所は……」の章句より前にあるのだが、易は吉凶消長の理と進退存亡の道とを明かにする学問ゆゑ、易が完全に身に浸み込んでしまへば、人に無理といふものが一切無くなる。如何にトントン拍子で利益、幸福が転げ込んで来ても、それを永久に続くものだなどと思はず、盛んなる者の必ず衰ふる時あるべきを思ひ、勝つて大に冑の緒を締めねばならぬものであると説くのが、是れ即ち易だ。又如何に悲運逆境に沈んでも、何れの日にか再び花の咲き返る時あるべきを思ひ、敢て漫りに悲観せず、元気を出して働けよと教へるのも実に易である。易は人世に処する微妙な呼吸を研究した処世学である。孔夫子は素より聖人であらせられるに相違無いが、若いうちは其れでも猶且客気に逸つたり調子に乗り過ぎたり、或は世相を悲観し過ぎたりせられた事もあるものと思はれる。そこで既往を顧み、之を易の説く処に当て篏めて考察し、茲に初めて処世の真諦を会得せられ、斯く欺くにすれば失敗、失策なぞの無い生活を送り得らるるものだといふ事を覚られ、五十歳少し前頃にたつてから、茲に掲ぐる如き言を発せらるるに至つたものだらう。
 私なぞも今にして思へば易を学んで置けば好かつたなぞと稽へぬでも無いが、私の性分には猶且何よりも論語が一番よく合ふのである。誰であつたか其人の名前は忘れたが、相当な学者で私に少し「老子」を読んで見るが可からうと熱心に勧めて下さつた方がある。依て私も「老子」を多少読んでもみたが、什麽も「老子」の中には「必ず固に之を奪はんと欲すれば、必ず固に之を与ふ」なぞといふ句があつたりなんかして、その説く処が如何にも策略じみた懸引が多いやうに思はれ、読んでみても不快を覚えるのだ。

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デジタル版「実験論語処世談」(39) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.291-300
底本の記事タイトル:二七一 竜門雑誌 第三六五号 大正七年一〇月 : 実験論語処世談(第卅九回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第365号(竜門社, 1918.10)
初出誌:『実業之世界』第15巻第14,15号(実業之世界社, 1918.07.15,08.01)