9. 廻り遠い話をする人
まわりどおいはなしをするひと
(39)-9
子曰。三人行。必有我師焉。択其善者而従之。其不善者而改之。【述而第七】
(子曰く、三人行けば、必ず我が師あり、其の善なる者を択んで之に従ひ、その不善なる者は之を改む。)
茲に掲げた章句を「朱子集注」に於ては、人が三人づれで歩き、そのうち一人を自分だとすれば、他の二人のうち一人は必ず善人で一人は必ず悪人たるにきまつてるもの故、悪人の言行には従はず、善人の言行を学ぶやうにすべきであるとの意に解釈して居るが、強ひて爾う窮屈に狭く解釈する必要も無かるべく、人間到る処青山のある如く又人間到る処師のあるもので、敢て三人に限つたわけでは無いが、多人数の寄り集つてる処には、必ず善い人も悪い人もあり、玉石混淆のもの故、その中の善人を師として其善行に習ひ、そのうちの悪人を見ては、我が身にも其人の如き悪い欠点は無からうかと、自ら省みて我が身の悪いところを改むるやうにすべきものだといふ意味に解釈するが可いのである。(子曰く、三人行けば、必ず我が師あり、其の善なる者を択んで之に従ひ、その不善なる者は之を改む。)
私なぞも多人数寄り集つた処へ出かけて行つた為に、意外な新智識を得たり、意外な立派な思慮を持つてる人に会つたりする事もでき意外の利益を得る場合も無いでは無いが、いま明かに其実例を想ひ起して挙げ得られぬのを遺憾とする。私は元来これまでも屡〻談話したうちに申述べ置ける如く、「あの人間は五月蠅いから遇はぬ」とか「あの人間は厭な奴だから遇ひたく無い」とかいふ如き障壁を設けず、誰へも悦んで遇ふやうにして居るのだが、時間には限りがある故、殆ど無限とも観るべき客を悉く引見して之と会談を遂げるわけに行かぬので、止むなく、会ふ必要の無いと思ふ人には会はず、又病気であつたり差支へがあつたりすれば会へぬといふ場合を生ずるのみである。かくして私が色々の人に会つて新しく学ぶところのあるやうに、他人様も亦、時に或は私に遇つて学ぶべき何物かを発見せらるる場合が無いでも無からうと思ふ。
私の御遇ひする人は、実に千差万別いろいろであるが、中には私が御目に懸つても、先方から談話の口を切らず、又私も何の用で来られたものか判然せぬので、同じく話の口を切るわけに行かず、それでも古くから知つてる人でもあれば、「昨今郷国の天気は何んなものか」とか何んとか無意味の問ひでも懸け、談話の端緒を見出し得られぬでも無いが、全然知らぬ人に対してはそんな問ひすら懸けられず、先方も黙し、私も黙し、両方坐つたままで十分間も沈黙を続ける事が無いでも無い。本来ならば、先方から用があるとて会見を求めて来たもの故、私に会つたら先方が先何より先きに其用向を話し出すべき筈のものと私は思ふが、稍〻五分も経つて未だ先方が談話の口を切らぬやうだと、余り長く睨み合ひをして居つても時間が無駄になると思ひ、私の方から「御用の趣きは何んであるか」と切り出すのが例である。
当今私の許へ遇ひに来られる方は大抵、誰かへ紹介を頼みたいとか或は斯ういふ事をやるから助けてくれとか、一歩進んで物質上の援助を得たいとかいふにあるのだが、それを単刀直入に話し出さず、多くは遠廻しに話されるので、容易に其れとは知り得られぬところを私の方で察してあげて「然らば御談話の御趣意は斯く斯くの事か」と申せば、「如何にも其の通りである」との事で、茲に初めて私は其用談に対し「そんなら助けよう」とか「助けるわけに行かぬ」とかと、自分の意見を述べるのである。それや是れやで、客に遇ふのにも随分無益の時間を徒費し、為に僅かの時間では存外多数の人と遇つて居られぬといふやうな事にもなる。それから客のうちには、如何に其の頼み事を私が断つても繰り返し繰り返し「どうぞどうぞ」といふ風に重ねて幾度も頼む人がある。こんな事にも無駄な時間を費されてしまふのだが、一度断つても猶ほ重ねて度々御頼みなさる方に対しては、「如何に御話になつても、一度出来ぬと私が申した事は出来ぬのだから、同じ事を繰返して十遍御頼みになつても夫れは全くの無駄である。御互に時間潰しをするよりももう其の話は御廃しになるのが得策だらう」と申すのだ。
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- 【述而第七】 子曰、三人行必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之。
- デジタル版「実験論語処世談」(39) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.291-300
底本の記事タイトル:二七一 竜門雑誌 第三六五号 大正七年一〇月 : 実験論語処世談(第卅九回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第365号(竜門社, 1918.10)
初出誌:『実業之世界』第15巻第14,15号(実業之世界社, 1918.07.15,08.01)