デジタル版「実験論語処世談」(39) / 渋沢栄一

2. 碧巌録よりも聖書

へきがんろくよりもせいしょ

(39)-2

 私の婿の阪谷男爵の遠い縁辺のものに山成哲蔵といふ人がある。これは禅学の方で相当の学者だもんだから、何時ぞや是非私に禅学を修めよと勧めてくれた。依て私も、兎に角少し修つて見ようといふ気を起し、例の「碧巌録」を手に入れて読みかけてみたが、何が何やら要領を摘み得ず、理解つたやうでも又何処かに理解らぬやうな処があつて、私は誠に気持悪く感じたのである。「碧巌録」の開巻に載せらるる僧趙州の無字論なども、什麽も判然せぬのだ。これは私ばかりで無い、誰が読んでみても同一の感を催すだらうと思ふが、私は禅学といふものには、斯く何処かに判然し無い、漠然たる処があるやうに思はれ、什麽も私の性分に合はぬやうな気がする。為に「碧巌録」も少しばかり読んだだけで全篇を読み了らず其まま今日まで筐底に蔵して置く如き始末である。斯く色々の人が「老子」を読んだら可からうとか或は禅学をやれとか勧めてくれるのは、私の言行が、何時でも余りに適切過ぎて毫も茫漠たる処無く要領を得過ぎる傾きのあるやうに世人の眼から見えるに因ることだらう。然し、私は何事でも事物を生半可にし、殺すでも無く活かすでも無く、蛇を半殺しにして置く如き態度を取るのが厭やな性分である。「碧巌録」の外に猶ほ「般若心経」なんかも読んで見たが、アヽ禅学のやうに判然せぬ理解らぬ処が底にあつては、私は什麽しても好く気になれぬのである。禅宗に比べれば耶蘇教の方は余程理解り易く、聖書は「碧巌録」のやうに難解な点も無く、読んでみても直ぐ解るが、其れでも猶且福音書なぞのうちには余程詳細に註釈を聞いた上で無いと諒解しかぬる謎の如き語が無いでも無い。私は聖書も読まんのでは無い、読んで居る。英国監督派の基督教教師皆川輝雄氏が四福音書の講義をして下されるのを聴聞もした。
 それから又、海老名弾正氏が基督教に就ての回数講義をしてやらうと言はれたので、前後十二回に亘り、基督教の起源よりルーテルの宗教改革、及び今日に至るまでの基督教の歴史と其教義の大要とに関する講義をも聴き、それが終つてから猶ほ四福音書の講義をも聞かして下されたが、什麽も幾度読んでも、若干ら講義を聞かされても、私は其れに共鳴するわけに行かぬので、「馬可伝」の半分ばかり済んだところで、私も忙しかつたものだから、聴聞を中止してしまひ、海老名氏よりは「中途で廃めるとは酷い。せめて四福音書を終るまで引続き講義を聴かるることにしては何うか」なぞとも督促されても居るが、私には其れほどまでの熱心が無いのだ。同じ聖書のうちでも、私は福音書よりも寧ろ、保羅の書簡として伝へらるる羅馬書とか哥林多後書とかいふものの方が、理義の貫徹したところがあつて好いやうに思ふのである。然し、私には、猶且何物よりも論語が理解り易く、読めば直に処世の実地に行ひ得る教訓なので、その中にある語句も私は能く暗記してるが、聖書の句なぞは迚ても暗記して居られぬのである。

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碧巌録, 聖書
デジタル版「実験論語処世談」(39) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.291-300
底本の記事タイトル:二七一 竜門雑誌 第三六五号 大正七年一〇月 : 実験論語処世談(第卅九回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第365号(竜門社, 1918.10)
初出誌:『実業之世界』第15巻第14,15号(実業之世界社, 1918.07.15,08.01)