デジタル版「実験論語処世談」(39) / 渋沢栄一

8. 昨今神の現はるる所以

さっこんかみのあらはるるゆえん

(39)-8

 孔夫子は決して神を談らなかつたと謂つても、敬虔の念が無かつたのでは無い。否な寧ろ人一倍神を敬する敬虔の精神に富んで居られたのだ。論語八佾篇には、「祭るには在すが如くにし、神を祭るには神在すが如くにす」とあるほどで、祖先を祭るにも神を祭るにも、之を在すが如くにして祭り、又同郷党篇には「その宗廟朝廷に在りては、便々として言ひ、唯謹むのみ」とか「大廟に入つては事毎に問ふ」とあつたりなぞして、孔夫子が敬虔の深い方であらせられた事は之によつても明かにし得らるるのだ。然し、これは一に孔夫子が心を正うして御自分の務を疎かにせざらん事を御心懸になつた正心誠意の発露に外ならぬもので、神に祈つて何うしようの斯うしようのといふ御精神からでは無いのである。私なぞも、自分で省みて正しいと思ふ処を行ひ自分の義務責任を果たすのが、是れ孔夫子の所謂「天」に対するの道で、かくさへして居れば祈らずとても神や守らんであると信じ、これが即ち私の信念であると思つてるのだが、宗教家は又さう稽へぬのである。
 当世の人に信念の乏しいことは私も甚だ之を遺憾とし、人には信念の無ければならぬものであると思つては居るが、私の謂ふ信念とは義務観念責任観念の自覚を指したもので、必ずしも人性人格あるゴッドとか仏陀とか或は又カミとかを信ずるといふ意味では無いのである。それを信ずるのも可からうが、人にして若し明確に義務責任を自覚し絶えず之を果さうとして居りさへすれば、敢て其必要は無いと私は思ふのである。然し、宗教家は、人に若し人性人格ある至上者の存在を信ずる信念が無くば、斯く義務責任を明確に自覚し、万難を排してまでも之を果さうといふ気になれぬものだと主張し、私なぞへも、最う一歩だから人格人性ある至上者の存在を信ぜよと切りに勧めてくれる宗教家のあるほどだ。ところが、私は什麽したものか、爾ういふ気に成れぬのである。ここが私と宗教家との意見の一致せぬ点である。
 近年は又如何なる風の吹き廻しか単に人性人格ある神の存在を説くのみに満足せず、自らを神であると称する者が続々として出現するやうになつた。やれ巣鴨の神様だとか池袋の神様だとか、随分いろいろの自称神様の多いことである。宮崎虎之助などいふ人も自ら「メシヤ仏陀」と称し、自分は神であると宣言して居るらしいが、宮崎は素と柳川藩の人で、亡くなつた私の知人の清水彦五郎氏も亦柳川藩の人であつた関係から宮崎を世話して居つた縁故上、一時は私も宮崎を役に立ちさうな人だと思ひ、多少の助力もしたのである。然しうまく行かず、あんな風に自ら神様と称する人になつてしまつたのは甚だ遺憾に思ふ処だ。宮崎は一寸私の許へ来にくい事情があるからでもあらうが宮崎の弟子と称する者が今日でも時々訪れて来る。余り度々ゆゑ断らうとも思ふが、それでは困るからと訴へるので多少貢いでやるやうな事がある。
 維新前には斯う自称神様が多く世間へ現れなかつたものだ。然るに近年に至り、斯く自称神様の続々其処此処へ現るるやうになつたのは耶蘇教が悪く解釈された感化の致す処だらうと、私は思ふのである。耶蘇は自ら神の子であると宣言して新宗教を弘演し、それが旨くアタつてるので、自ら神様であると称して新宗教らしいものを宣伝しさへすれば必ず耶蘇の如く旨くアタるだらうといふのが、昨今続出する自称神様の心持らしいが、さう旨くばかり行くものでは無い。要するに今の自称神様は皆一種の山気がかつた精神に動かされて居るもので、うまくアテて見ようと思つてる人々らしく私には想へてはならぬのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(39) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.291-300
底本の記事タイトル:二七一 竜門雑誌 第三六五号 大正七年一〇月 : 実験論語処世談(第卅九回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第365号(竜門社, 1918.10)
初出誌:『実業之世界』第15巻第14,15号(実業之世界社, 1918.07.15,08.01)