デジタル版「実験論語処世談」(39) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.291-300

子曰。加我数年。五十以学易。可以無大過矣。【述而第七】
(子曰く、我れに数年を加して、五十以て易を学ばば、以て大過無かるべし。)
 茲に掲げた章句も「子、雅に言ふ所は……」の章句より前にあるのだが、易は吉凶消長の理と進退存亡の道とを明かにする学問ゆゑ、易が完全に身に浸み込んでしまへば、人に無理といふものが一切無くなる。如何にトントン拍子で利益、幸福が転げ込んで来ても、それを永久に続くものだなどと思はず、盛んなる者の必ず衰ふる時あるべきを思ひ、勝つて大に冑の緒を締めねばならぬものであると説くのが、是れ即ち易だ。又如何に悲運逆境に沈んでも、何れの日にか再び花の咲き返る時あるべきを思ひ、敢て漫りに悲観せず、元気を出して働けよと教へるのも実に易である。易は人世に処する微妙な呼吸を研究した処世学である。孔夫子は素より聖人であらせられるに相違無いが、若いうちは其れでも猶且客気に逸つたり調子に乗り過ぎたり、或は世相を悲観し過ぎたりせられた事もあるものと思はれる。そこで既往を顧み、之を易の説く処に当て篏めて考察し、茲に初めて処世の真諦を会得せられ、斯く欺くにすれば失敗、失策なぞの無い生活を送り得らるるものだといふ事を覚られ、五十歳少し前頃にたつてから、茲に掲ぐる如き言を発せらるるに至つたものだらう。
 私なぞも今にして思へば易を学んで置けば好かつたなぞと稽へぬでも無いが、私の性分には猶且何よりも論語が一番よく合ふのである。誰であつたか其人の名前は忘れたが、相当な学者で私に少し「老子」を読んで見るが可からうと熱心に勧めて下さつた方がある。依て私も「老子」を多少読んでもみたが、什麽も「老子」の中には「必ず固に之を奪はんと欲すれば、必ず固に之を与ふ」なぞといふ句があつたりなんかして、その説く処が如何にも策略じみた懸引が多いやうに思はれ、読んでみても不快を覚えるのだ。
 私の婿の阪谷男爵の遠い縁辺のものに山成哲蔵といふ人がある。これは禅学の方で相当の学者だもんだから、何時ぞや是非私に禅学を修めよと勧めてくれた。依て私も、兎に角少し修つて見ようといふ気を起し、例の「碧巌録」を手に入れて読みかけてみたが、何が何やら要領を摘み得ず、理解つたやうでも又何処かに理解らぬやうな処があつて、私は誠に気持悪く感じたのである。「碧巌録」の開巻に載せらるる僧趙州の無字論なども、什麽も判然せぬのだ。これは私ばかりで無い、誰が読んでみても同一の感を催すだらうと思ふが、私は禅学といふものには、斯く何処かに判然し無い、漠然たる処があるやうに思はれ、什麽も私の性分に合はぬやうな気がする。為に「碧巌録」も少しばかり読んだだけで全篇を読み了らず其まま今日まで筐底に蔵して置く如き始末である。斯く色々の人が「老子」を読んだら可からうとか或は禅学をやれとか勧めてくれるのは、私の言行が、何時でも余りに適切過ぎて毫も茫漠たる処無く要領を得過ぎる傾きのあるやうに世人の眼から見えるに因ることだらう。然し、私は何事でも事物を生半可にし、殺すでも無く活かすでも無く、蛇を半殺しにして置く如き態度を取るのが厭やな性分である。「碧巌録」の外に猶ほ「般若心経」なんかも読んで見たが、アヽ禅学のやうに判然せぬ理解らぬ処が底にあつては、私は什麽しても好く気になれぬのである。禅宗に比べれば耶蘇教の方は余程理解り易く、聖書は「碧巌録」のやうに難解な点も無く、読んでみても直ぐ解るが、其れでも猶且福音書なぞのうちには余程詳細に註釈を聞いた上で無いと諒解しかぬる謎の如き語が無いでも無い。私は聖書も読まんのでは無い、読んで居る。英国監督派の基督教教師皆川輝雄氏が四福音書の講義をして下されるのを聴聞もした。
 それから又、海老名弾正氏が基督教に就ての回数講義をしてやらうと言はれたので、前後十二回に亘り、基督教の起源よりルーテルの宗教改革、及び今日に至るまでの基督教の歴史と其教義の大要とに関する講義をも聴き、それが終つてから猶ほ四福音書の講義をも聞かして下されたが、什麽も幾度読んでも、若干ら講義を聞かされても、私は其れに共鳴するわけに行かぬので、「馬可伝」の半分ばかり済んだところで、私も忙しかつたものだから、聴聞を中止してしまひ、海老名氏よりは「中途で廃めるとは酷い。せめて四福音書を終るまで引続き講義を聴かるることにしては何うか」なぞとも督促されても居るが、私には其れほどまでの熱心が無いのだ。同じ聖書のうちでも、私は福音書よりも寧ろ、保羅の書簡として伝へらるる羅馬書とか哥林多後書とかいふものの方が、理義の貫徹したところがあつて好いやうに思ふのである。然し、私には、猶且何物よりも論語が理解り易く、読めば直に処世の実地に行ひ得る教訓なので、その中にある語句も私は能く暗記してるが、聖書の句なぞは迚ても暗記して居られぬのである。
葉公問孔子於子路。子路不対。子曰。女奚不曰。其為人也。発憤忘食。楽以忘憂。不知老之将至云爾。【述而第七】
(葉公、孔子を子路に問ふ、子路対へず。子曰く、女奚ぞ曰はざる、其人となりや憤を発して食を忘れ、楽みて憂を忘れ、老の将に至らんとするを知らずと爾か云ふ。)
 茲に掲げた章句から「子、雅に言ふ所は……」の後条になるのだが、葉公は姓を沈、名を諸梁、字を子高と申した楚の葉県の知事で、自ら国王気取りか何かになつて公と僣称して居つたのだ。一日、孔夫子の御弟子の一人なる子路を顧み、孔夫子の人物如何に就て問うた際、子路は何う答へて可いか見当つかず、孔夫子の如き偉人は到底葉公沈諸梁の如き小人に理解るもので無いと思ひでもしたものか、無言のままに過ごしてしまつたといふ事を孔夫子が後日に至つて聞き及びて、そんな事をせず、却て明瞭に孔夫子の人物を談り、夫子は何か之れぞと思ふ事を考へ始むれば食事をさへ忘れ、物事に熱心して来らるれば其れに夢中となつて一切心配などといふものが無くなつてしまひ、道を行ふに急なる為老人になるのも知らぬほどの人だ――と何故言つてくれなかつたのかと曰はれたといふのが、此の章句の意味である。
 単に孔夫子のみたらず誰でも、自分の主義主張乃至は事業に熱心となれば、食をも憂をも忘れ得らるるものだ。私の如き人間でも、論語なら論語の主旨を成るべく弘く世間へ伝へたいといふ熱心があれば、さうするのが非常な楽みになつてしまふので、之が為に時間を割いたり、他人と談話したりする事を何の苦とも思はぬやうになる。然し、論語の趣旨を宣伝することのうちに楽みを見出し得ぬやうだと、この「実験論語処世談」の為に時間を割くのも、物憂いやうな五月蠅やうな気がして今日まで継続して来られたもので無いのである。何事を為すに当つても、その事を楽むやうにならねば、迚も苦しくつて根気よく其事に当り得らるるもので無い。
 それから私とても、憂の無いわけは無い。公私共に色々の心配事がある。支那や米国の問題なぞに関しても、私の思ふ通りに運ばぬ為め苦痛を感ずる場合も多々あるが、そんな事で憂ひ出したら全く結末が無くなつてしまふ。当局者が私の意の如くに運んでくれぬのは、先方にも及ばぬ処があり私にも到らぬ処があり、時勢の未だ醒めて来ぬゆゑだと思へば腹も立たず、悠然として時機の到来を待ち得らるることになる。一家の私事なぞに関しても、私の意のままにならぬ事が随分無いでは無い。然し、一家の者を悉く自分の思ふやうにしてしまはうとしても、其れはできぬ事だと思へば、別に其れが苦痛ともならず、目前に横はる仕事を楽みにして奔走して居るうちには、何時か憂を忘れてしまひ得らるるやうになる。
 人に取つては働くといふ事が何よりも楽みであり、又不老不死の薬でもある。働いてさへ居れば憂ひは無くなるものだ。故に論語顔淵篇にも「君子は憂へず懼れず」と孔夫子は仰せられて居る。私は別に有徳の君子を以て目せらるるほどの人物でも無いが、自分の為さねばならぬと思ふ仕事だけは熱心に楽んでやれるので、之によつて凡ゆる憂を忘れ、憂へず懼れずになり得らるるのだ。
 又、人は、忙しく働いて居りさへすれば、老境に入るのも晩いもので、余り働かずブラブラして生活する者は兎角早く年寄るものだ。私も忙しく日々暮してるので老いの将に到らんとするを知らずどころか老いの既に来れるをも知らずに居る。私は既う誰でも御承知の通り、本年(大正七年)七十九歳で、老いが既に至つてるのだが、日々忙しく仕事に夢中になつて働いている御蔭で、さほど齢を取つたやうにも思はぬ。頭が耄碌してボケてしまつたなぞいふ事は無い。間違つた理窟を言つたり、間違つた事を考へたりせず、又他人の言ふ処を間違つて考察したりもせぬ積である。ただ記憶力が鈍くなつたやうに思ふ。大倉男爵や大隈侯なぞも亦老いの到れるを知らぬ人々で、今日八十歳前後になつても依然として壮者を凌ぐの概がある。孰れも仕事を楽んで忙しく働き、憂を忘れて居らるるからだ。之に反し、早く隠居なぞして閑日月を送つてる人は却て早く耄碌し、常に老いの至らんとするのを苦にし、間違つた理窟を言つたり、間違つた事を考へたりなんかして、七十歳に成るか成らぬうちからボケてしまふやうになるものである。若い時から引続いて働き、老年になつても之を廃めずに居りさへすれば、人は老いの既に到れることも知らずして、元気よく暮して行けるものだ。
 ただ、私が老年になつてから、何うも若い時分のやうに行かぬので残念に思ひ、自分で老いの到れるを自覚するのは、夜深かしのできぬ点である。私は自己の生産殖利事業から全く縁を断つてしまつた今日でも、いろいろと忙しくつて仕事が多い。依て隔日毎に深夜の二時頃までも起きて夜深しをやり仕事をすることにすれば毫も停滞無くみな片付いてしまふとは思ふが、什麽も七十九歳の今日では、私に其れができぬのだ。然し昨今でも仕事が停滞して来ると、一ケ月に一度や二度は猶且二時頃まで起きて仕事し、停滞した庶務を片付けることにする。現に、先月(大正七年四月)は余りに忙しくつて庶務の停滞が甚しかつたもんだから、一夜午前二時まで夜深しをして漸く之を片付けたほどだ。然しこれは月に一二回ならできるが、隔日続けてやるわけに行かぬ。ここらが私の老いた証拠だらうと思つてるが、朝は若い時分より却て早く起き得られる。若い時分には朝寝の癖をつけてしまつて、悪いとは思ひつつも午前八時前には床を離れなかつたものだが、年を取つてからは夏は午前六時、冬でも午前七時までには床を離れて起き得らるるやうになつたのだ。
子曰。我非生而知之者。好古敏以求之者也。【述而第七】
(子曰く、我は生れながらにして之を知る者に非ず、古を好み、敏にして之を求むる者なり。)
 茲に掲げた章句は、孔夫子と雖も修業を積んで漸く彼の如くなられたものであるとの意を述べられたものだ。孔夫子の如き非凡の天品を有せられた大人物と雖も、修養によって始めて道に達し得らるるものだとすれば、孔夫子ならぬ我々凡夫は一層の修養を積まねば、一人前の人間には成り得られぬのである。
 世間では私が生れ乍らにして、非凡の記憶力を有つてる人間であるかの如くに謂つてるらしいが、私の斯の記憶力は生れついて自然にあつたものだとは思へぬ。これは私が自分一人だけで他人に見えぬやうにして実行してることなので誰も知らぬが、私は前条にも「三省」の章のところで一寸談話して置いたやうに、若い時から今日まで、毎日床に就て寝る前に、その日にあつた事を総て復顕して想ひ起し、朝起きてから、まづ第一に斯んな事があつた、その次には斯んな事があつたと、次から次へと、一日中にあつた事を残らず想ひ出して、それから寝に就くといふ習慣をつけて居る。八釜しく道徳的に謂へば、自ら其日の言行を省ることになつて、精神修養の上にも利益する処は多いが、第一、記憶力を養成発達さする上に其効が頗る大で、若し私が多少なりとも秀でた記憶力がありとすれば、それは斯く毎夜寝に就く前に其日に起つた凡ゆる出来事を想ひ出して復顕する習慣をつけたのに因る処が多いだらうと思ふのだ。
 大隈公も記憶力に於ては実に非凡なもので、能く何んでも記憶して居られる。智力の優れた人は大抵記憶力の秀でたところのあるもの故記憶力の如何によつて其人の智力如何を判定しても大過無きほどだが私の娘で阪谷男爵の夫人になつてるコト子は、別に大した学問があるといふでも無いのに、不思議に年月日に関する記憶が正確で、何年の何月何日には何んな事件があつたといふことを能く記憶して居る。故に私の一族では、斯んな事は何時あつたかと誰も忘れてしまつてるやうな時には、之を阪谷男爵夫人に聞いてみる、必ず之を記憶して居つて、何月何日だと知らしてくれる。為に私の一族は頗る重宝して居るのだが、年月日のみを記憶して居るわけにも行かぬもので、年月日を記憶して居ると同時に、事件の梗概をも記憶して居るのだ。大隈侯の記憶力も非凡だが、伊藤公の記憶力も実に非凡なもので、学問上の事でも何んでも能く記憶して居られたものだ。阪谷男爵夫人は学問がさまでに深いといふのでも無いから学問上のことは覚えても居らぬが、年月日に関した記憶力の非凡なのには私も時折驚かされる。
子不語怪力乱神。【述而第七】
(子、怪、力、乱、神を語らず。)
 孔夫子は、詩、書、執礼等人を善美に導く資けとなるやうな事ばかりを常に口にせられ、苟も道理の上から観察し到底あり得べからずとせらるる如き怪異不可思議の化物談じみたことや、徒に力を誇つて匹夫の勇を揮ふ如き話や、臣にして君に反き子にして親を弑せる如き悖徳の譚や、幽遠にして人智の能く測り知る処に非ざる鬼神に就ての議論なぞを、決して口にせられなかつたものであるといふのが、茲に掲げた章句の趣意である。
 怪しいと思はるる妖怪変化と雖も、之を深く研究すれば毫も怪むを要せざるものとなり、力自慢の勇士に関する物語と雖も、或は話し様の如何によつて士気を鼓舞する一助にならぬとも限らず、悖礼悖徳の革命にも亦、歴史的に観察すれば多少の意義を存し、鬼神に関する議論も、哲学上から観察したら全然無価値のもので無いやも知れぬが、人が、斯くの如き世間に普通で無い極端な事柄に趣味を持ち、絶えず怪、力、乱、神を口にして居るやうになれば、その人の思想は自づと平衡を失し、極端な行動を取つて得意とするまでになり、言行共に中庸を喪ふに至る恐れのあるものだ。これ孔夫子の取らざる処である。依て孔夫子は、断じて怪、力、乱、神を談るまいとの御決心をなされて居つたものらしく思へる。怪、力、乱、神を談らぬとは、つまり中庸の道を守らうとの心懸が盛んであらせられたとの意に外ならぬのである。
 怪異不可思議の事を信ずると否とは、必ずしも其人の学問、智識の程度によるものでは無いらしい。存外な学者で幽霊を信じたりする者がある。さうかと思へば又一方には、無学の者で一切妖怪じみた事を排斥し之を信ぜぬものがある。私なぞは是まで申して置いたうちにも屡〻談話した通りで、一切神いぢりといふものを致さぬのだが、若い時分には其れでも慰み半分に、淘宮術を覚えてやつてみた事がある。淘宮術には昨今大分信仰者があつて、之によつて日常の去就進退を決するほどの人も無いでは無いが、素は支那の天元術から来たもので、天保五年に幕府の御留守番同心組頭を勤めた横山丸三といふ人の案出した一種の術で、十二支、十干、八品などにより、自分の性状を知りその欠点病所を匡正淘冶せんとするのが趣意だ。易の乾兌離震巽坎艮坤によつて八卦を立つるのと同じく、陰陽学の一種であると観て宜しからう。昨今では、何んなものか知らぬが、私の若くつて能く遊んだ頃には、吉原の芸者なんかに之を信ずる者が却〻多くあつて、それらと一緒になつてる間に何時と無く私も其れを覚えたのだが、全くの慰み半分で、別に之によつて進退去就を決したりなんかしたわけでは無い。然し或る人々に取つては、之も亦坐禅の如く修身斉家の一法になるだらう。九星とても亦同様だ。
 白河楽翁公の如きは、学問もあり、智恵も優れ、精神の立派な人物であらせられたに拘らず、従来談話したうちにも既に申述べ置ける如く、幕府の老中に任ぜらるるや、自分の一命は素より妻子眷族の生命までも懸けて、窃に深川の聖天様へ起誓せられて居る。楽翁公に似合はしからぬ事だと思ふが、怪異を信ずると否とは、其人の学問なぞよりも、寧ろ却つて其人の教育、境遇に因ること故、楽翁公は出生が元来殿様なる為幼少の頃より奥女中なぞに、かの如き迷信じみた思想を吹き込まれて来た結果、我々から観れば馬鹿気て見ゆる如き起誓なんかを、誠心誠意の迸つた余り、敢てせらるるに至つたものだらうと思ふ。私の交つた維新の元老なぞにはこの迷信に属する怪異を信ずるやうな人は無かつたもので、井上侯でも伊藤公でも全く迷信がかつた事の無かつた人である。大隈侯なんかも勿論さうである。
 維新の頃は世の中が物騒で、動ともすれば刃物三昧の盛んに行はれたものらしく今から想へぬでも無いが、苟も漢学でも修め武士道の何ものたるかを解して居つた者は、容易に刀の鞘を払ふ如き事をしなかつたものである。一寸した事にも斬るの撃つのと騒いで力自慢や技倆自慢をしたがつた者は、学問の素養に乏しい撃剣使ひぐらゐに過ぎなかつたのだ。然し、新撰組の隊長をした近藤勇とか或は又清川八郎なんかといふ男は、力を示したがる癖の人であつたと謂ひ得られようと思ふ。その他には私の知つてる維新頃の人で、力を誇りたがる傾向を持つてた人は一寸記憶に無い。
 臣にして君に反き、子にして親を弑するまでの無法を敢てし無くつても、何かにつけて平地に波瀾を起したがり、忠孝を無視して豪がつたりしたがる者が随分世間にはある。殊に功利主義の行はるる昨今の時世には、斯んな中庸を失した思想を懐いて得意とする者を多く出す傾向があり、如何にも慨かはしい事だ。人間は自己の利害のみならず他人の利害をも念とせねばならぬもので、自己の利益幸福のみに専念し、他人は何う成らうと構はぬといふやうな調子では、自己の利益幸福さへ之を全うし得られ無くなる故、人間に取つて他愛心は自己の生存上からも必要欠くべからざるもので、忠孝は、人間が其の最も手近な処に於て、他愛心を発揮する道であるとも謂ひ得るだらう。故に人は先づ忠孝によつて他愛の精神を涵養するやうに努めねば相成らぬものだ。慈悲、博愛、忍辱の基となるものは、実に忠孝の精神である。ただ、矢鱈に君に反いてみたかつたり、親を侮蔑してみたかつたりして、それを豪い人物たる資格であるかの如く心得てる人は是れ即ち危険思想の人で、こんな人間は、到底何事をも為し得られぬのみか、我身を全うする事だにできるもので無い。危険思想とは他無し、乱を好む心理作用である。斯る思想は、他人と社会とへは勿論危害を与へ、又、自分の身をも傷ふに至るものだ。乱に趣味を持つ如き人は、交際して居つても甚だ危険で心地悪しく、何時寝首を掻きに来るか測り知られぬ故、些かも気を許されず、始終用心して暮さねばならぬといふ事になる。昔から、忠臣は孝子の門に出づとの諺があるが、慈愛心は忠孝の門より出づるものだ。
 孔夫子は決して神を談らなかつたと謂つても、敬虔の念が無かつたのでは無い。否な寧ろ人一倍神を敬する敬虔の精神に富んで居られたのだ。論語八佾篇には、「祭るには在すが如くにし、神を祭るには神在すが如くにす」とあるほどで、祖先を祭るにも神を祭るにも、之を在すが如くにして祭り、又同郷党篇には「その宗廟朝廷に在りては、便々として言ひ、唯謹むのみ」とか「大廟に入つては事毎に問ふ」とあつたりなぞして、孔夫子が敬虔の深い方であらせられた事は之によつても明かにし得らるるのだ。然し、これは一に孔夫子が心を正うして御自分の務を疎かにせざらん事を御心懸になつた正心誠意の発露に外ならぬもので、神に祈つて何うしようの斯うしようのといふ御精神からでは無いのである。私なぞも、自分で省みて正しいと思ふ処を行ひ自分の義務責任を果たすのが、是れ孔夫子の所謂「天」に対するの道で、かくさへして居れば祈らずとても神や守らんであると信じ、これが即ち私の信念であると思つてるのだが、宗教家は又さう稽へぬのである。
 当世の人に信念の乏しいことは私も甚だ之を遺憾とし、人には信念の無ければならぬものであると思つては居るが、私の謂ふ信念とは義務観念責任観念の自覚を指したもので、必ずしも人性人格あるゴッドとか仏陀とか或は又カミとかを信ずるといふ意味では無いのである。それを信ずるのも可からうが、人にして若し明確に義務責任を自覚し絶えず之を果さうとして居りさへすれば、敢て其必要は無いと私は思ふのである。然し、宗教家は、人に若し人性人格ある至上者の存在を信ずる信念が無くば、斯く義務責任を明確に自覚し、万難を排してまでも之を果さうといふ気になれぬものだと主張し、私なぞへも、最う一歩だから人格人性ある至上者の存在を信ぜよと切りに勧めてくれる宗教家のあるほどだ。ところが、私は什麽したものか、爾ういふ気に成れぬのである。ここが私と宗教家との意見の一致せぬ点である。
 近年は又如何なる風の吹き廻しか単に人性人格ある神の存在を説くのみに満足せず、自らを神であると称する者が続々として出現するやうになつた。やれ巣鴨の神様だとか池袋の神様だとか、随分いろいろの自称神様の多いことである。宮崎虎之助などいふ人も自ら「メシヤ仏陀」と称し、自分は神であると宣言して居るらしいが、宮崎は素と柳川藩の人で、亡くなつた私の知人の清水彦五郎氏も亦柳川藩の人であつた関係から宮崎を世話して居つた縁故上、一時は私も宮崎を役に立ちさうな人だと思ひ、多少の助力もしたのである。然しうまく行かず、あんな風に自ら神様と称する人になつてしまつたのは甚だ遺憾に思ふ処だ。宮崎は一寸私の許へ来にくい事情があるからでもあらうが宮崎の弟子と称する者が今日でも時々訪れて来る。余り度々ゆゑ断らうとも思ふが、それでは困るからと訴へるので多少貢いでやるやうな事がある。
 維新前には斯う自称神様が多く世間へ現れなかつたものだ。然るに近年に至り、斯く自称神様の続々其処此処へ現るるやうになつたのは耶蘇教が悪く解釈された感化の致す処だらうと、私は思ふのである。耶蘇は自ら神の子であると宣言して新宗教を弘演し、それが旨くアタつてるので、自ら神様であると称して新宗教らしいものを宣伝しさへすれば必ず耶蘇の如く旨くアタるだらうといふのが、昨今続出する自称神様の心持らしいが、さう旨くばかり行くものでは無い。要するに今の自称神様は皆一種の山気がかつた精神に動かされて居るもので、うまくアテて見ようと思つてる人々らしく私には想へてはならぬのである。
子曰。三人行。必有我師焉。択其善者而従之。其不善者而改之。【述而第七】
(子曰く、三人行けば、必ず我が師あり、其の善なる者を択んで之に従ひ、その不善なる者は之を改む。)
 茲に掲げた章句を「朱子集注」に於ては、人が三人づれで歩き、そのうち一人を自分だとすれば、他の二人のうち一人は必ず善人で一人は必ず悪人たるにきまつてるもの故、悪人の言行には従はず、善人の言行を学ぶやうにすべきであるとの意に解釈して居るが、強ひて爾う窮屈に狭く解釈する必要も無かるべく、人間到る処青山のある如く又人間到る処師のあるもので、敢て三人に限つたわけでは無いが、多人数の寄り集つてる処には、必ず善い人も悪い人もあり、玉石混淆のもの故、その中の善人を師として其善行に習ひ、そのうちの悪人を見ては、我が身にも其人の如き悪い欠点は無からうかと、自ら省みて我が身の悪いところを改むるやうにすべきものだといふ意味に解釈するが可いのである。
 私なぞも多人数寄り集つた処へ出かけて行つた為に、意外な新智識を得たり、意外な立派な思慮を持つてる人に会つたりする事もでき意外の利益を得る場合も無いでは無いが、いま明かに其実例を想ひ起して挙げ得られぬのを遺憾とする。私は元来これまでも屡〻談話したうちに申述べ置ける如く、「あの人間は五月蠅いから遇はぬ」とか「あの人間は厭な奴だから遇ひたく無い」とかいふ如き障壁を設けず、誰へも悦んで遇ふやうにして居るのだが、時間には限りがある故、殆ど無限とも観るべき客を悉く引見して之と会談を遂げるわけに行かぬので、止むなく、会ふ必要の無いと思ふ人には会はず、又病気であつたり差支へがあつたりすれば会へぬといふ場合を生ずるのみである。かくして私が色々の人に会つて新しく学ぶところのあるやうに、他人様も亦、時に或は私に遇つて学ぶべき何物かを発見せらるる場合が無いでも無からうと思ふ。
 私の御遇ひする人は、実に千差万別いろいろであるが、中には私が御目に懸つても、先方から談話の口を切らず、又私も何の用で来られたものか判然せぬので、同じく話の口を切るわけに行かず、それでも古くから知つてる人でもあれば、「昨今郷国の天気は何んなものか」とか何んとか無意味の問ひでも懸け、談話の端緒を見出し得られぬでも無いが、全然知らぬ人に対してはそんな問ひすら懸けられず、先方も黙し、私も黙し、両方坐つたままで十分間も沈黙を続ける事が無いでも無い。本来ならば、先方から用があるとて会見を求めて来たもの故、私に会つたら先方が先何より先きに其用向を話し出すべき筈のものと私は思ふが、稍〻五分も経つて未だ先方が談話の口を切らぬやうだと、余り長く睨み合ひをして居つても時間が無駄になると思ひ、私の方から「御用の趣きは何んであるか」と切り出すのが例である。
 当今私の許へ遇ひに来られる方は大抵、誰かへ紹介を頼みたいとか或は斯ういふ事をやるから助けてくれとか、一歩進んで物質上の援助を得たいとかいふにあるのだが、それを単刀直入に話し出さず、多くは遠廻しに話されるので、容易に其れとは知り得られぬところを私の方で察してあげて「然らば御談話の御趣意は斯く斯くの事か」と申せば、「如何にも其の通りである」との事で、茲に初めて私は其用談に対し「そんなら助けよう」とか「助けるわけに行かぬ」とかと、自分の意見を述べるのである。それや是れやで、客に遇ふのにも随分無益の時間を徒費し、為に僅かの時間では存外多数の人と遇つて居られぬといふやうな事にもなる。それから客のうちには、如何に其の頼み事を私が断つても繰り返し繰り返し「どうぞどうぞ」といふ風に重ねて幾度も頼む人がある。こんな事にも無駄な時間を費されてしまふのだが、一度断つても猶ほ重ねて度々御頼みなさる方に対しては、「如何に御話になつても、一度出来ぬと私が申した事は出来ぬのだから、同じ事を繰返して十遍御頼みになつても夫れは全くの無駄である。御互に時間潰しをするよりももう其の話は御廃しになるのが得策だらう」と申すのだ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.291-300
底本の記事タイトル:二七一 竜門雑誌 第三六五号 大正七年一〇月 : 実験論語処世談(第卅九回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第365号(竜門社, 1918.10)
初出誌:『実業之世界』第15巻第14,15号(実業之世界社, 1918.07.15,08.01)