デジタル版「実験論語処世談」(60) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.492-495

顔淵問仁。子曰。克己復礼為仁。一日克己復礼。天下帰仁焉。為仁由己。而由人乎哉。顔淵曰。請問其目。子曰。非礼勿視。非礼勿聴非礼勿言。非礼勿動。顔淵曰。回雖不敏。請事斯語矣。【顔淵第十二】
(顔淵仁を問ふ。子曰く。己に克ちて礼に復るを仁為す。一日己に克ち礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る。人に由らんや。顔淵曰く。其の目を請ひ問ふ。子曰く。非礼視ること勿れ、非礼聴くこと勿れ、非礼言ふこと勿れ、非礼動くこと勿れ。顔淵曰く回不敏と雖も、請ふ斯の語を事とせん。)
 此の章は孔子の教訓の内でも最も重きを置かれてある仁に就いて、孔門第一の高弟である顔淵が質問したのであるから、孔子も力を入れて叮嚀に之れを説かれて居る。御承知の如く孔子には沢山の門弟があつたが、其の中でも勝れた門弟が七十四人あつた。其の七十四人中に於ても特に群を抜いて居つたのが、徳行には顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓、言語には宰我、子貢、政事には冉有、季路、文学には子游、子夏、と孔子が挙げて居る。所謂孔門の十哲であるが、顔淵は十哲中の首席にある最も特出した高弟で、孔子より歳は若いが孔子に亜ぐと称され、亜聖と言はれた程の人物である。尤も茲に挙げられた孔子の十哲以外にも偉い門人が沢山にある。曾子の如き、子張の如き即ちそれであつて、殊に曾子の如きは孔子の門弟中最も傑出した人物であるが是等の諸子が十哲中に加はらなかつたのは、ずつと後の弟子であつた為に外ならぬのである。
 さて顔淵の仁に就て質問をしたのに対して、孔子は之れを三節に分けて説かれた。即ち「克己復礼為仁」までが一節。「一日克己復礼。天下帰仁焉」までが二節。「為仁由己、而由人乎哉」が三節であつて第一節に於て仁の体用を説き、第二節に於て仁の効能を言ひ、第三節に於て仁を行ふに就ての工夫を述べられたのである。
 己に克て礼に復るを仁となすといふのは、人間が能く己の私慾に打ち克つて、其の言動が礼に適うて過る処がなければ之れ即ち仁であるといふのであるが、凡て吾々人間が物事をなすに当つては、理智と感情の発動が必ず伴ふものである。されば常に節度宜しきを得て法を超えざるよう、拠る可き準備が整うて居らなければならぬのであるが、理智と感情との権衡が丁度よくとれて、何事に対しても節度宜しきを得るといふ人は誠に少い。つまり、喜、怒、哀、楽、愛、悪、欲の七情の発動によつて動きやすいのである。例へば、誰某が自分を中傷した、怪しからぬと思ふのは怒に属する。可愛いと思ふのは愛の発動である。平和な心で人に接するのは楽である。嫌な奴だと思ふは悪に属する。此の外、不幸に逢つて哀しみ、物事が順調に行つて喜ぶなど、有らゆる機会に於て七情が発動し、場合によつては其の何れかが程度を超えて出る。之れは吾々凡人には実に免れ難い欠点であるから、平和な心を以て道理に適した発情をするやうに、平生よく注意しなければならぬのである。而して此の七情の発動が、よく道理に適ふのが仁である。
 一日己に克ちて礼に復れば天下仁に帰すといふのは、人が能く己の欲心に克ち、礼を履み行ふならば、天下広しと雖も悉く仁に帰するであらうといふ意味であつて、茲に一日とあるは、必ずしも一日といふのではない。天下仁に帰すと云はれたのも、亦必ずしも悉く衆民が仁に帰向するといふのではなく、其の感応の速かにして効験の大なる事を形容されたのであつて、文字通り解釈すべきでない。
 仁を為すは己に由る、人に由らんやといふのは、仁は己れ自身によるものであつて、他人によるものではない。斯の如く仁を為すは己自らなし得ることであつて、他人の与る所でないから、何時にても自ら仁を為さんと心掛ければ、直ちに為し得て甚だ容易であると説かれたのである。
 孔子は順序を立てて如何にも叮嚀な説き方をされてゐるが、之れは仁が孔子の教への中でも最も重要なものであるからである。
 処で顔淵は更に其の細目について質問したので、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」といはれた。之れを約言すれば、其の言動が礼に適ふやうにせよといふのである。人は総ての場合に於て先づ眼で見、耳で聴き、而して口で言ひ、動くものであるが、人に接する際にはどうしても七情が発動して其の言動に現はれる。此の場合に於て、必ず礼を履み、礼と合はぬ事は視、聴、言、動するなといふのである。即ち孔子は其の細目を問はれたのに対して、事実を挙げて之に答へられたのである。顔淵は之れを聞いて大に喜び、私は愚鈍であるから果して之れを為し遂ぐる事が出来るかどうかは分りませぬが、四勿を実行するを以て任務としませうと誓つたのである。
 茲に注意すべきは孔子の言ふ礼は、今日の所謂単なる礼式を言ふのではない。周時代の礼はもつと重い意味であつて、身を治め、家を治め、進んでは国を治むるの道を指したものである。支那の五経、即ち詩経、書経、易経、礼記、春秋は当時に於て何れも重きをなした著述で、詩経には当時に在りては重要な学問であつた詩に関する種々の事が記述されて居り、書経には代々の天子の事蹟を書いてゐる。易経は私は詳しいことは知らぬが、今日占ひや八卦などいふやうな予言的に関する易学の本であつて、礼記には一身上己の身を慎み世に処するの道が述べられてある。春秋は当時の歴史を書いたものであるが、単なる歴史でなく、其の時代に於ける事実に就て、褒貶曲直を正し、言ひ現はし方は露骨ではないが、皮肉であり、又深刻である処の批判を試みて居るのである。其の礼記にもある如く、孔子の言ふ礼は非常に重い意味の含まれてゐるものである事を知らねばならぬ。
 人の世に立つに於て責任の重い人、軽い人、身柄の高い人、低い人の差別なく有ゆる事柄に於て誰でも七情の発動が伴はない訳には行かない。甚だしきに至つては、自分の都合によつて白をも黒といふ人もある。政治家の中などには往々かういふ人を見受ける。又実業家にしても、商売上の懸引を考へて、平然として嘘を言ふ人もある。之れは大に慎まなければならぬ事柄である。孔子の説く所は之れを大きくすれば天下国家を治むるの道であり、之れを小にしては一身一家を治むるの道である。されば徹頭徹尾、人間の実際生活に密着したる極めて実際的な教へであつて、誰でも行はなければならぬ生きた教訓なのである。然るに世間の所謂学者は之れを死物にして仕舞つて居る。即ち学者は孔子の説く仁を単なる学理的に解釈して、実際生活と切離してゐるが、それは全く間違ひである。孔子の教へは学問と実行とが伴うて始めて真に価値あるものであつて、然らざれば死物である。之れに気付かれないのは遺憾である。私は此点に関して切に反省を促したいと思ふ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.492-495
底本の記事タイトル:三四〇 竜門雑誌 第四一三号 大正一一年一〇月 : 実験論語処世談(五十八《(六十)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第413号(竜門社, 1922.10)
初出誌:『実業之世界』第19巻第4号(実業之世界社, 1922.04)