2. 仁の体用と効験と実例と
じんのたいようとこうけんとじつれいと
(60)-2
一日己に克ちて礼に復れば天下仁に帰すといふのは、人が能く己の欲心に克ち、礼を履み行ふならば、天下広しと雖も悉く仁に帰するであらうといふ意味であつて、茲に一日とあるは、必ずしも一日といふのではない。天下仁に帰すと云はれたのも、亦必ずしも悉く衆民が仁に帰向するといふのではなく、其の感応の速かにして効験の大なる事を形容されたのであつて、文字通り解釈すべきでない。
仁を為すは己に由る、人に由らんやといふのは、仁は己れ自身によるものであつて、他人によるものではない。斯の如く仁を為すは己自らなし得ることであつて、他人の与る所でないから、何時にても自ら仁を為さんと心掛ければ、直ちに為し得て甚だ容易であると説かれたのである。
孔子は順序を立てて如何にも叮嚀な説き方をされてゐるが、之れは仁が孔子の教への中でも最も重要なものであるからである。
処で顔淵は更に其の細目について質問したので、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」といはれた。之れを約言すれば、其の言動が礼に適ふやうにせよといふのである。人は総ての場合に於て先づ眼で見、耳で聴き、而して口で言ひ、動くものであるが、人に接する際にはどうしても七情が発動して其の言動に現はれる。此の場合に於て、必ず礼を履み、礼と合はぬ事は視、聴、言、動するなといふのである。即ち孔子は其の細目を問はれたのに対して、事実を挙げて之に答へられたのである。顔淵は之れを聞いて大に喜び、私は愚鈍であるから果して之れを為し遂ぐる事が出来るかどうかは分りませぬが、四勿を実行するを以て任務としませうと誓つたのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(60) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.492-495
底本の記事タイトル:三四〇 竜門雑誌 第四一三号 大正一一年一〇月 : 実験論語処世談(五十八《(六十)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第413号(竜門社, 1922.10)
初出誌:『実業之世界』第19巻第4号(実業之世界社, 1922.04)