デジタル版「実験論語処世談」(60) / 渋沢栄一

2. 仁の体用と効験と実例と

じんのたいようとこうけんとじつれいと

(60)-2

 己に克て礼に復るを仁となすといふのは、人間が能く己の私慾に打ち克つて、其の言動が礼に適うて過る処がなければ之れ即ち仁であるといふのであるが、凡て吾々人間が物事をなすに当つては、理智と感情の発動が必ず伴ふものである。されば常に節度宜しきを得て法を超えざるよう、拠る可き準備が整うて居らなければならぬのであるが、理智と感情との権衡が丁度よくとれて、何事に対しても節度宜しきを得るといふ人は誠に少い。つまり、喜、怒、哀、楽、愛、悪、欲の七情の発動によつて動きやすいのである。例へば、誰某が自分を中傷した、怪しからぬと思ふのは怒に属する。可愛いと思ふのは愛の発動である。平和な心で人に接するのは楽である。嫌な奴だと思ふは悪に属する。此の外、不幸に逢つて哀しみ、物事が順調に行つて喜ぶなど、有らゆる機会に於て七情が発動し、場合によつては其の何れかが程度を超えて出る。之れは吾々凡人には実に免れ難い欠点であるから、平和な心を以て道理に適した発情をするやうに、平生よく注意しなければならぬのである。而して此の七情の発動が、よく道理に適ふのが仁である。
 一日己に克ちて礼に復れば天下仁に帰すといふのは、人が能く己の欲心に克ち、礼を履み行ふならば、天下広しと雖も悉く仁に帰するであらうといふ意味であつて、茲に一日とあるは、必ずしも一日といふのではない。天下仁に帰すと云はれたのも、亦必ずしも悉く衆民が仁に帰向するといふのではなく、其の感応の速かにして効験の大なる事を形容されたのであつて、文字通り解釈すべきでない。
 仁を為すは己に由る、人に由らんやといふのは、仁は己れ自身によるものであつて、他人によるものではない。斯の如く仁を為すは己自らなし得ることであつて、他人の与る所でないから、何時にても自ら仁を為さんと心掛ければ、直ちに為し得て甚だ容易であると説かれたのである。
 孔子は順序を立てて如何にも叮嚀な説き方をされてゐるが、之れは仁が孔子の教への中でも最も重要なものであるからである。
 処で顔淵は更に其の細目について質問したので、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」といはれた。之れを約言すれば、其の言動が礼に適ふやうにせよといふのである。人は総ての場合に於て先づ眼で見、耳で聴き、而して口で言ひ、動くものであるが、人に接する際にはどうしても七情が発動して其の言動に現はれる。此の場合に於て、必ず礼を履み、礼と合はぬ事は視、聴、言、動するなといふのである。即ち孔子は其の細目を問はれたのに対して、事実を挙げて之に答へられたのである。顔淵は之れを聞いて大に喜び、私は愚鈍であるから果して之れを為し遂ぐる事が出来るかどうかは分りませぬが、四勿を実行するを以て任務としませうと誓つたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(60) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.492-495
底本の記事タイトル:三四〇 竜門雑誌 第四一三号 大正一一年一〇月 : 実験論語処世談(五十八《(六十)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第413号(竜門社, 1922.10)
初出誌:『実業之世界』第19巻第4号(実業之世界社, 1922.04)