デジタル版「実験論語処世談」(60) / 渋沢栄一

3. 孔子の説く仁は実際生活に伴ふ

こうしのとくじんはじっさいせいかつにともなう

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 茲に注意すべきは孔子の言ふ礼は、今日の所謂単なる礼式を言ふのではない。周時代の礼はもつと重い意味であつて、身を治め、家を治め、進んでは国を治むるの道を指したものである。支那の五経、即ち詩経、書経、易経、礼記、春秋は当時に於て何れも重きをなした著述で、詩経には当時に在りては重要な学問であつた詩に関する種々の事が記述されて居り、書経には代々の天子の事蹟を書いてゐる。易経は私は詳しいことは知らぬが、今日占ひや八卦などいふやうな予言的に関する易学の本であつて、礼記には一身上己の身を慎み世に処するの道が述べられてある。春秋は当時の歴史を書いたものであるが、単なる歴史でなく、其の時代に於ける事実に就て、褒貶曲直を正し、言ひ現はし方は露骨ではないが、皮肉であり、又深刻である処の批判を試みて居るのである。其の礼記にもある如く、孔子の言ふ礼は非常に重い意味の含まれてゐるものである事を知らねばならぬ。
 人の世に立つに於て責任の重い人、軽い人、身柄の高い人、低い人の差別なく有ゆる事柄に於て誰でも七情の発動が伴はない訳には行かない。甚だしきに至つては、自分の都合によつて白をも黒といふ人もある。政治家の中などには往々かういふ人を見受ける。又実業家にしても、商売上の懸引を考へて、平然として嘘を言ふ人もある。之れは大に慎まなければならぬ事柄である。孔子の説く所は之れを大きくすれば天下国家を治むるの道であり、之れを小にしては一身一家を治むるの道である。されば徹頭徹尾、人間の実際生活に密着したる極めて実際的な教へであつて、誰でも行はなければならぬ生きた教訓なのである。然るに世間の所謂学者は之れを死物にして仕舞つて居る。即ち学者は孔子の説く仁を単なる学理的に解釈して、実際生活と切離してゐるが、それは全く間違ひである。孔子の教へは学問と実行とが伴うて始めて真に価値あるものであつて、然らざれば死物である。之れに気付かれないのは遺憾である。私は此点に関して切に反省を促したいと思ふ。

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キーワード
孔子, 説く, , 実際生活
デジタル版「実験論語処世談」(60) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.492-495
底本の記事タイトル:三四〇 竜門雑誌 第四一三号 大正一一年一〇月 : 実験論語処世談(五十八《(六十)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第413号(竜門社, 1922.10)
初出誌:『実業之世界』第19巻第4号(実業之世界社, 1922.04)