デジタル版「実験論語処世談」(61) / 渋沢栄一

1. 論語の死学ならざる所以

ろんごのしがくならざるゆえん

(61)-1

 孔子は顔淵の仁に対する問ひに対して懇切に説かれた事は前回に御話したが、孔子の仁を説かれるのは必ずしも一様でない。其の時と場合により、又、其の説き知らせる人物の如何によつて非常に異なる処があるが、之れ論語を研究する者の大に注意すべき処であつて、且つ論語の死んだ学問でなく、活きた学問である所以も、実に茲に存するのである。例へば茲に病人があると仮定する、其の病気は同じであつても、其の病人が老人であるか、壮年であるか、子供であるかによつて、薬の分量も異なり、体質の強い人と弱い人とによつても薬の盛り方が違ふが如く、孔子も人によつて或は答へ、或は訓へ、或は厳しく叱り、其の説かれる処は一様でない。之れ論語の活用の最も妙味のある処であつて、人間の実生活と離すべからざる関係を有する所以である。論語はかういふ活きた学問であるから、或学者のやうに一の学説として、論理的に一気呵成に之れを述べる事は出来ない。凡て実際問題に結びつけて説くのであるから、此点を能く見分ける様でなければ論語の真価は分らぬ。
 孔子の教への中でも、仁は最も重きを置いた貴いものであるから、孔子は何人に対しても却〻「仁」を許さなかつた。「其仁に当るか」というても、孔子は容易に之れを容認されなかつた。而して前回に説いた処の顔淵の問に対する孔子の答へは、正面から、広く王道の立場から仁を説かれたのであるが、仲弓の同じく「仁」を問へるに対しては、他の答へを以てせられた。見様によつては、第二流の門弟に対する答へとも言へるし、第二段の説明とも解釈する事が出来よう。

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キーワード
論語, 死学, 所以
デジタル版「実験論語処世談」(61) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.501-507
底本の記事タイトル:三四五 竜門雑誌 第四一六号 大正一二年一月 : 実験論語処世談(第五十九《(六十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第416号(竜門社, 1923.01)
初出誌:『実業之世界』第19巻第5・6-8号(実業之世界社, 1922.06,07,08)