デジタル版「実験論語処世談」(61) / 渋沢栄一

8. 明ある人とは如何なる人か

めいあるひととはいかなるひとか

(61)-8

子張問明。子曰。浸潤之譖。膚受之愬。不行焉。可謂明也已矣。浸潤之譖。膚受之愬。不行焉。可謂遠也已矣。【顔淵第十二】
(子張明を問ふ。子曰く。浸潤の譖、膚受の愬、行はれず、明と謂ひつ可きのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行はれず、遠しと謂ひつ可きのみ。)
 此の章は、子張が国君の明について問うたのに対し、孔夫子が明遠の知を説かれたのであるが、短い言葉の中に、如何にも軟らかに、巧みに答へられて質問の核心に触れて居る。
 人を見るの明があるといふ言葉は能く耳にする処であるが、どういふ人を指して斯く言ふ事が出来るのであらうか、之れは仲々難かしい事である。孔子は之れに就て訓へられるるには、水が次第に物に浸み込むが如くに、人を毀りて何時と無く其人を悪く思はせ、遂に之れを陥るるは、讒言の最も巧みなものであつて、突然に彼の人はかういふ欠点がある、かういふ悪い行ひがあると讒言するの比ではない。大抵の人は其の讒言である事を知らずして、知らず識らずの中に之れを信ずるに至るものである。又、私は斯ういふ事情の為めに今斯く斯くの危害が身に切迫して居ると、激しく、露骨に身に振りかかつて来た災難を訴へる時は、つい情に動かされて詳しく其の真偽をも取調べずに信ずる人が多い。
 かういふ二様の場合に際会しても、決して之れに誤られず、譖も愬も共に行はれない様な人であるならば、之れ即ち明である。斯かる人は啻に目前の明ばかりでなく、遠くをも察知するの明のある人であると懇切に説かれたのである。
 茲に二人の人があつて共に其家に出入りすると仮定する。その一人が絶えず某氏に対してソロリソロリと機会ある毎に讒を構へて、他の一人を遠廻しに悪口を言ふと、始めの中は気にも止めないで居つても長い中には、善良な人が悪人に思はれたりするやうな事もある。つまり何時の間にか其の讒を信ずるやうになる。又身に切迫した災厄を訴へられて、如何にも真に迫つた様な感じを受けると、熟慮する暇もなくウカウカと之に誤られ勝ちなものである。かういふ人は、人を見るの明があるとは言へない。如何なる場合に在りても、道理に適ふ様に中正の立場に居りさへすれば、之に誤られる様な事はないものである之を真の明と謂ふ事が出来る。

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デジタル版「実験論語処世談」(61) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.501-507
底本の記事タイトル:三四五 竜門雑誌 第四一六号 大正一二年一月 : 実験論語処世談(第五十九《(六十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第416号(竜門社, 1923.01)
初出誌:『実業之世界』第19巻第5・6-8号(実業之世界社, 1922.06,07,08)