デジタル版「実験論語処世談」(61) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.501-507

 孔子は顔淵の仁に対する問ひに対して懇切に説かれた事は前回に御話したが、孔子の仁を説かれるのは必ずしも一様でない。其の時と場合により、又、其の説き知らせる人物の如何によつて非常に異なる処があるが、之れ論語を研究する者の大に注意すべき処であつて、且つ論語の死んだ学問でなく、活きた学問である所以も、実に茲に存するのである。例へば茲に病人があると仮定する、其の病気は同じであつても、其の病人が老人であるか、壮年であるか、子供であるかによつて、薬の分量も異なり、体質の強い人と弱い人とによつても薬の盛り方が違ふが如く、孔子も人によつて或は答へ、或は訓へ、或は厳しく叱り、其の説かれる処は一様でない。之れ論語の活用の最も妙味のある処であつて、人間の実生活と離すべからざる関係を有する所以である。論語はかういふ活きた学問であるから、或学者のやうに一の学説として、論理的に一気呵成に之れを述べる事は出来ない。凡て実際問題に結びつけて説くのであるから、此点を能く見分ける様でなければ論語の真価は分らぬ。
 孔子の教への中でも、仁は最も重きを置いた貴いものであるから、孔子は何人に対しても却〻「仁」を許さなかつた。「其仁に当るか」というても、孔子は容易に之れを容認されなかつた。而して前回に説いた処の顔淵の問に対する孔子の答へは、正面から、広く王道の立場から仁を説かれたのであるが、仲弓の同じく「仁」を問へるに対しては、他の答へを以てせられた。見様によつては、第二流の門弟に対する答へとも言へるし、第二段の説明とも解釈する事が出来よう。
仲弓問仁。子曰。出門如見大賓。使民如承大祭。己所不欲勿施於人在邦無怨。在家無怨。仲弓曰。雍雖不敏。請事斯語矣。【顔淵第十二】
(仲弓仁を問ふ。子曰く、門を出づれば大賓を見るが如く、民を使ふには大祭を承くるが如くし、己の欲せざる所は人に施すこと勿れ邦に在りても怨みは無く、家に在りても怨みは無けむ。仲弓曰く。雍や不敏と雖も、請ふ斯の語を事とせん。)
 此の章は言ふ迄もなく、仲弓の「仁」を問へるに対し、孔子の答へられたものであつて、一口に言へば物事を苟且にせぬ様に、総て人に対しては敬してよく精神を集中し、他念を交へず、人に接する時には貴賓に接する時と同じ様な緊張した心持でなければならぬ。又、眼下の者を使ふにも、大祭に臨んだ時の如く慎み敬するやうにすべきである。又、自分の嫌うて欲しない所のものは、他人も亦必ず厭ふであらうと推察して是れを強ひてはならない。かうすれば君侯に仕へて重要な地位に在つても、決して怨みを受けるやうな事なく、卿大夫の家に仕へても亦人に怨まるるやうな事はない。之れ即ち「仁」であるといふ意味である。仲弓之れを聞いて大に喜び、「私は不敏であるけれども、今後は、此の訓言を―座右の銘として違ふ事のない様に務めませう」と孔夫子に誓つたのである。茲に言ふ大祭といふのは、禘(先祖祭のこと)郊(外に出て祭ること)の如き重い祭りを指して言ふのである。
 曾て子貢が孔夫子に向つて「一言にして終身守る可き最も大切な道は何でありますか」と問うた事がある。その時孔子は答へて「其れ恕か」と言はれた事がある。「己れに克つて礼を履む、之れを仁となす」とは孔子の訓であるが、茲に言ふ「己れの欲せざる所之を人に施す勿れ」と相通ずる所がある。すべて己れ自身の心を清め行を慎み、物事に対して親切に取扱ふ。之れ仁の心である。
 仁の大要に就ては、論語の中で最も主眼とすべき点であるから、孔夫子もあらゆる方面から之れを懇切に説いてをられるが、従つて支那の学者も、日本の学者も之れに対し種々なる解釈を下し、其の解釈が必ずしも一定でない。併し、多くの学者の論究する所は、徒に字句に囚はれてゐる憾みがある。論語の解釈は須らく之れを時代に当て嵌めて、之れに適応するやうに解釈す可きであつて、字句に拘泥すべきでない。
司馬牛問仁。子曰。仁者其言也訒。曰。其言也訒。斯謂之仁矣乎。子曰。為之難。言之得無訒乎。【顔淵第十二】
(司馬牛仁を問ふ。子曰く。仁者は其の言や訒。曰く。其の言や訒斯に之を仁と言ふ乎。子曰く。之れを為す事難し、之を言ふ訒無きを得んや。)
 すべての事柄は、言ふは易く行ふは難い。古来「言ふ可くして行ふ可らず」とか、「言ふに易く行ひ難し」とか、種々の訓言があるが、何事に付けても之れを言ふ事は易いが、之を実行する事になると種々の障害が起りなかなかむづかしいものである。例へば、何か公共事業を始めると仮定して、六千万の国民から一人一円づつの割合で集めると、立ち所に六千万円の金が集る訳であるが、いざ其の事を実行しようとしても、なかなか六千万円の金が集まるものではない。青年団が明治神宮の外苑に会館を造るに就て、何十万円かの金を集める際も大分困難した模様である。考へ通り行くものとすれば、少しの行き悩みもある筈はないが、いざ実行となると思ひ通りには行かない。自分一身の事でも同様である。されば人は能く其の言葉を慎まなければならない。
 司馬牛は宋の人で、孔子の高弟の一人であるが、其の為人が多弁で思慮せず、軽々しく物を言ふ癖があつた。孔子は能く其の病を知つてをられたから、其の仁を問へるに対して「仁者は其の言を慎み、容易に言はざるものである」と答へられた。即ち孔子は司馬牛の病を知つて、之れに適する薬を一服盛つたのである。ところが司馬牛は、其の真意を解せず「それでは言葉を慎み能く訒なるのみで、仁者といふ事が出来ますか」と重ねて問うた。それで孔子之れを諭して「世の中のすべての事は之れを言ふは易いけれど、之れを実行するは甚だ困難である。実行が困難であるから、其の言ふ事も大いに慎まなければならない」と言はれた。蓋し、人間は能く其の言を慎んで行を先きにし、事々に礼を履んで行くやうにすれば仁の道に適ふからである。
 今の世にも司馬牛のやうに口術に長けた人が多い。自分の都合の好いやうに口から出まかせに述べて、見え透いたやうな嘘を平気で言ふやうな人も少くない。其の言責に対する感念などは薬にしたくもないやうな人さへある。すべてが誠から出てをらぬ言論は何等の価値がないと言つてよい。如何なる名論も、実行が伴うて始めて価値があるのである。実行が伴はなければ夫れは空論に過ぎない。或は迷論に帰する、大いに注意すべきである。
司馬牛問君子。子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子。矣乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。【顔淵第十二】
(司馬牛君子を問ふ。子曰く。君子は憂へず、懼れず。曰く。憂へず、懼れず、斯に之を君子と謂ふ乎。子曰く。内に省みて疚しからず、夫れ何をか憂へ何をか懼れん。)
 これは孔子が司馬牛が君子を問へるに対する答へであるが、いかにも瑕のない、司馬牛に当て嵌つた教訓である。君子といふのは、一国の君主に対し敬称的に言ふ場合もあるが、此の場合に於ける君子は立派な人格の人を指したのであつて、所謂君子と小人とを相対したのである。然らば君子とは如何なる要素を備へた人を云ふかといふに、之れを箇条書きにしたものは勿論ないから、其の条項に当て嵌める事は出来ないが、先づ簡単に言へば自ら内に省みて恥づるところのない人を指して云ふのである。自分のすべての行動に対して人道を誤らず、道理に悖らず、其の行に過ちがなく、品行が正しければ、自ら省みて疚しい点がない筈である。之れ即ち君子である。品行の悪い人などは勿論君子とは言へないが、いかに行が良くとも天秤棒を担いで歩く人を君子とも言へまい。君子に対する定義としてはないが、今言ふやうな意味に解釈して間違ひはないと思ふ。
 そこで、孔子は司馬牛の問に対し、「人は常に安らかな心を以て禍あらん事を憂ふる事なく、又、懼るる事もなければ、之れ君子といふ事が出来よう」と答へられた。蓋し、司馬牛の兄向魋は後に乱を興した人で、常に其の累の自分に及ばん事を憂惧してをつたのである。孔子は能く其の事情を知つてをられたので「君子は憂へず懼れず」と訓へられたのである。司馬牛はそれでもまだ能く腑に落ちぬので更に反問したのであるが、孔夫子は懇切に説明して「自分の平日の行が一つも道に異ふ事がなく、自分の為すべき事を道に従つて尽せば、自ら省みて心に疚しい事なく、俯仰天地に恥づるところがないであらう。従つて何の憂ひも何の懼れもある可き筈がない。如何なる場合であつても、己れの言動さへ間違ひがなければ心常に平であつて、何の心配もない。それから先の事は運を天に任せればよいのである。故に君子は憂へず懼れずといふのである」と言はれたのである。孔子は兄弟に乱人ある事を露骨には言葉に表はさないが、暗に其の意味を仄めかし、司馬牛自身が能く徳を修め、道に従つて行が正しければ、兄弟にどんな人があつても憂ふるに足らない事を諭されてをる。
 近頃、綱紀粛正問題が大分やかましいやうであるが、種々なる問題に関聯して縲絏の苦難を嘗めてをる人も大分をるやうである。それらの人々は元より身の行に過ちがあつたであらう。だがそれ以外の人々は果して自ら省みて疚しい点がないであらうか。司馬牛は悪い兄弟を持つた為めに、常に其の禍の自分に及ばん事を怖れて憂惧してをつたが、今の世の中には自分自らの行に省みて、明日を憂ひ懼れてをる者が尠くないのではなからうか。君子では今の世に容れられぬとの説をなすものもあるが、何時の時代に於ても人格の光は滅するものではない。自己の立身出世の為め、或は富貴を積まんが為め、正しからざる言動をなし、常に薄氷を履むの思ひでをるに比すれば、譬へ富みを積まず名を成さずとも幸福其の中に在る。「君子は憂へず懼れず」の言大いに味ふ可きではないか。
司馬牛憂曰。人皆有兄弟。我独亡。子夏曰。商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。与人恭而有礼。四海之内皆兄弟也。君子何患無兄弟也。【顔淵第十二】
(司馬牛憂へて曰く。人皆兄弟有り、我れ独り亡し。子夏曰く。商之を聞く、死生命有り、富貴天に在りと。君子敬にして失なく、人と恭にして礼有らば、四海の内皆兄弟なり、君子何ぞ兄弟無きを患へんや。)
 此の一章の意味は、簡単に言へば子夏が司馬牛の兄弟なきを憂へて居るのを慰めたのである。司馬牛は、孔子の門弟中でも高弟といふ程偉い人ではなかつた。前回にも「司馬牛問仁」及び「司馬牛問君子」の章句が出て居るが、或時、司馬牛は悄然として子夏に向つて、人には皆兄弟があつて相愛し相助けて楽しいのに、自分のみは兄弟が無く心細くて堪へられないと語つた。子夏は之れを聞いて司馬牛を慰め、私は曾て孔夫子に聞いた事があるが、人の死生には天命があつて、死すべき時には何人と雖も皆死ななければならぬ。富貴も天命によるものであつて、人力にては如何とも為すべからざるものであると訓へられた。されば天命に逆らう事なく、死生富貴を度外に置き、自分の為すべき本分を務むべきである。君子たる者は事を敬して失徳の行ひなく、人と交はるには恭謙にして礼譲があれば、天下の人は悉く之れを愛敬して兄弟と同様である。即ち肉身の兄弟は無くとも無限の兄弟があるのである。されば人間としては自ら力めて徳を修むるに専心すべきであつて、兄弟のないのは少しも憂愁するに足らぬと答へた。之れが此の章の大意であるが、此の子夏の言葉の中に孔子の教訓が力強く説かれてゐる。
 即ち「死生有命。富貴在天」といふのは孔子の教訓であるが、死生命有りといつても、凡てを成行きに委せて行くといふ意味ではない。自分の尽すべき本分は十分に尽して、其の上は天命に委せるといふのである。即ち世に尽す功労が多ければ多い程、世人の尊敬が増して来るが、何等世の中に尽す処なく無為徒食し、奢り驕ぶると世間の信用もなくなる。前者の如くにして尚ほ事志と違ふも、それは天命とすべきであるが、後者は自業自得であつて天命ではない。又、物を食はなかつたり、或は食ひ過ぎて定命を縮めるのは天命に背くものである。死生命ありといふのは、分り易く言へば「人事を尽して天命を俟つ」である。飽く迄も自分の本分を尽し適当の栄養分を摂取し、天寿を完うするのが道に副ふ所以である。例へば人力で如何とも為し難きものがある。生来、身の丈の低い人が高くなりたいと思つて運動をしても身長が伸びるものではない。瘠せた人が肥えたいと思つても、元来の体質が違ふから肥えた人にはならぬ。之れなどは天命である。要するに人間の本分を尽して飽く迄も自己の働きによつて倒れるまで力め、それ以上は天命に俟つ可きである。自己の本分を尽さずして「死生有命」などといふ人は、取りも直さず天命の罪人といふ可きである。
 又、子夏は「恭くして礼あれば云々」と説いて居るが、学而篇に於て、「信近於義、言可復也。恭近於礼、遠恥辱也。」(信、義に近ければ、言、復む可し。恭、礼に近ければ、恥辱を遠ざかる)とあるので子夏はその訓へを引用して、恭にして礼あらば四海の内皆兄弟なりと慰めたのであつて、道徳の頽れた今日に於ては此の章の如き、特に味ふ可きであり、学ぶ可きである。
子張問明。子曰。浸潤之譖。膚受之愬。不行焉。可謂明也已矣。浸潤之譖。膚受之愬。不行焉。可謂遠也已矣。【顔淵第十二】
(子張明を問ふ。子曰く。浸潤の譖、膚受の愬、行はれず、明と謂ひつ可きのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行はれず、遠しと謂ひつ可きのみ。)
 此の章は、子張が国君の明について問うたのに対し、孔夫子が明遠の知を説かれたのであるが、短い言葉の中に、如何にも軟らかに、巧みに答へられて質問の核心に触れて居る。
 人を見るの明があるといふ言葉は能く耳にする処であるが、どういふ人を指して斯く言ふ事が出来るのであらうか、之れは仲々難かしい事である。孔子は之れに就て訓へられるるには、水が次第に物に浸み込むが如くに、人を毀りて何時と無く其人を悪く思はせ、遂に之れを陥るるは、讒言の最も巧みなものであつて、突然に彼の人はかういふ欠点がある、かういふ悪い行ひがあると讒言するの比ではない。大抵の人は其の讒言である事を知らずして、知らず識らずの中に之れを信ずるに至るものである。又、私は斯ういふ事情の為めに今斯く斯くの危害が身に切迫して居ると、激しく、露骨に身に振りかかつて来た災難を訴へる時は、つい情に動かされて詳しく其の真偽をも取調べずに信ずる人が多い。
 かういふ二様の場合に際会しても、決して之れに誤られず、譖も愬も共に行はれない様な人であるならば、之れ即ち明である。斯かる人は啻に目前の明ばかりでなく、遠くをも察知するの明のある人であると懇切に説かれたのである。
 茲に二人の人があつて共に其家に出入りすると仮定する。その一人が絶えず某氏に対してソロリソロリと機会ある毎に讒を構へて、他の一人を遠廻しに悪口を言ふと、始めの中は気にも止めないで居つても長い中には、善良な人が悪人に思はれたりするやうな事もある。つまり何時の間にか其の讒を信ずるやうになる。又身に切迫した災厄を訴へられて、如何にも真に迫つた様な感じを受けると、熟慮する暇もなくウカウカと之に誤られ勝ちなものである。かういふ人は、人を見るの明があるとは言へない。如何なる場合に在りても、道理に適ふ様に中正の立場に居りさへすれば、之に誤られる様な事はないものである之を真の明と謂ふ事が出来る。
子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。子貢曰。必不得已而去。於斯三者何先。曰。去兵。子貢曰。必不得已而去。於斯二者何先。曰。去食。自古皆有死。民無信不立。【顔淵第十二】
(子貢政を問ふ。子曰く。食を足し、兵を足し、民之を信ずと。子貢曰く。必ず已むことを得ずして、斯の三者より去らば何をか先にせん。曰く。兵を去らん。子貢曰く。必ず已むことを得ずして、斯の二者より去らば何をか先にせん。曰く。食を去らんと。古より皆死有り、民信無ければ立たず。)
 此の章は、論語の教訓の中でも最も大切な項目の一つである。子貢は御承知の通り孔門十哲中の一人であつて、孔夫子も、言語には宰我子貢と云はれて居る如く、特に頭脳明晰で、立論、建白の類、或は応対、辞令に秀で文章も亦巧みであつた方であるが、一日孔子に向つて政を為すの道を問はれたのである。単に文字通り解釈すれば、政事はどうして執るかといふ意味であるが、同じ政事でも善政もあり、悪政もあつて、両者何れも政事には違ひないが、茲にいふ政と云ふのは、一国の君主なり宰相なりが善政を布いて、一国を治めるにはどうすればよいかといふ意味の質問なのである。之に対して孔子は「食を足し兵を足し、民之を信ず」といふ簡単明瞭な言葉を以て答へられたが、此の短い言葉の中に深い意味が含まれて居り、善政を布くについての心得が、十分に尽されて居るのである。
 「食を足し」といふのはただ食物が十分であるといふのではない。衣食住を満足せしめて、何の不平不満をも無からしむるといふのである。更に砕いて説明すれば、一国の状態が総て順調であつて、鉄道、港湾、道路等の交通運輸の設備が完全し、各種の文化施設が能く行届き、土地住宅難等を訴ふる様な事もなく、更に日用品の物価宜しきを得て、公設市場の如きも十分に其の能力を発揮して居るといふ風に、国民をして不平不満を抱かしむる余地なからしむる様にすることが第一であるといふのである。「兵を足し」といふのは、相当の軍備が必要であるといふのであるが、之れは決して侵略的意味を含むものでなく、敵国に備へて民生を保護するの必要から斯く言はれたものであつて、国民をして安んじて各其の業務に従はしむるが為である。之に加ふるに「民之を信ず」が伴はなければならぬと喝破されたが、即ち、能く道徳が行渡つて、忠孝信義の念が厚く、時の為政者の誠意が一般国民に理解されて民をして信ぜしむるに至つたならば、これ善政であると答へられたのである。
 子貢は更に問を進めて、政事を為すの道について、「食を足し、兵を足し、民之を信ず」の三者を具備しなければならぬ事はよく諒解しましたが、若し国家に拠ない事情があつて、此の三者を具備する事が出来ず、已むを得ず三つの中、其の一つを去らなければならぬ際には何れを先に去るべきでせうかと質問した。処が孔子は先づ軍備を去らんと答へられた。蓋し国民生活が安定し、国民が為政者を信頼して居れば、仮令兵備が欠乏して居つても、国を治め得るからである。過般の華府会議に於ても、軍備縮小が議され、実行さるる事となつたが、二千数百年前に於て孔子の説かれた処と軌を同うし、戦時中軍備拡張の結果、国民生活の安定を欠くに至つたので、軍備全廃とまでは行かぬが兎も角、或程度の縮小断行をする事となつたのである。
 子貢は更に語をついて、已むを得ず食と信との二者の中、其の一つを去らなければならぬ場合には、何れを先にすべきものでせうかと問うた。孔子は即座に、其の場合は食を去る可きである。人間は食がなければ餓死するけれども、古より人は皆死を免るる事が出来ない。苟も国民にして為政者を深く信ずるに於ては、仮令死するとも民心は離反せず、叛くやうな事はないが、若し信がなければ、食兵が足つても毫も益なく、政が行はれるものでないと訓へられた。孔子は茲に「民信無ければ立たず」と言はれて居るが、私は「人信ければ立たず」といつてもよいと思ふ。適切な譬ではないが「武士は食はねど高楊子」とか、「鷹飢ゑても穂を啄まず」といふやうな教訓があるが、之れは信義を重んずるについての譬喩であつて、信といふ事については、古来重んぜられて居つたのである。三島先生は此章の講義に王覇の別を挙げて居られるが、私は其必要がないと思ふ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.501-507
底本の記事タイトル:三四五 竜門雑誌 第四一六号 大正一二年一月 : 実験論語処世談(第五十九《(六十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第416号(竜門社, 1923.01)
初出誌:『実業之世界』第19巻第5・6-8号(実業之世界社, 1922.06,07,08)