デジタル版「実験論語処世談」(61) / 渋沢栄一
7. 人事を尽して天命を俟つ
じんじをつくしててんめいをまつ
(61)-7
即ち「死生有命。富貴在天」といふのは孔子の教訓であるが、死生命有りといつても、凡てを成行きに委せて行くといふ意味ではない。自分の尽すべき本分は十分に尽して、其の上は天命に委せるといふのである。即ち世に尽す功労が多ければ多い程、世人の尊敬が増して来るが、何等世の中に尽す処なく無為徒食し、奢り驕ぶると世間の信用もなくなる。前者の如くにして尚ほ事志と違ふも、それは天命とすべきであるが、後者は自業自得であつて天命ではない。又、物を食はなかつたり、或は食ひ過ぎて定命を縮めるのは天命に背くものである。死生命ありといふのは、分り易く言へば「人事を尽して天命を俟つ」である。飽く迄も自分の本分を尽し適当の栄養分を摂取し、天寿を完うするのが道に副ふ所以である。例へば人力で如何とも為し難きものがある。生来、身の丈の低い人が高くなりたいと思つて運動をしても身長が伸びるものではない。瘠せた人が肥えたいと思つても、元来の体質が違ふから肥えた人にはならぬ。之れなどは天命である。要するに人間の本分を尽して飽く迄も自己の働きによつて倒れるまで力め、それ以上は天命に俟つ可きである。自己の本分を尽さずして「死生有命」などといふ人は、取りも直さず天命の罪人といふ可きである。
又、子夏は「恭くして礼あれば云々」と説いて居るが、学而篇に於て、「信近於義、言可復也。恭近於礼、遠恥辱也。」(信、義に近ければ、言、復む可し。恭、礼に近ければ、恥辱を遠ざかる)とあるので子夏はその訓へを引用して、恭にして礼あらば四海の内皆兄弟なりと慰めたのであつて、道徳の頽れた今日に於ては此の章の如き、特に味ふ可きであり、学ぶ可きである。
全文ページで読む
- デジタル版「実験論語処世談」(61) / 渋沢栄一
-
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.501-507
底本の記事タイトル:三四五 竜門雑誌 第四一六号 大正一二年一月 : 実験論語処世談(第五十九《(六十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第416号(竜門社, 1923.01)
初出誌:『実業之世界』第19巻第5・6-8号(実業之世界社, 1922.06,07,08)