デジタル版「実験論語処世談」(7) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.685-690
私の「論語処世談」も追々回を重ねて早や七回に相成るが、充分なる準備を整へ置いて学者諸先生が教室に出でて講義をせらるゝ時のやうに予め整然と体系を立てた談話をするわけにも参らず、動々ともすれば、老人の懐旧談に流れてしまふ如き傾きがある為に或は、爾んな事なら遠の過去に聞いてるなぞと思召さるゝ方々もあらせられるかとも愚考するが、又、其代り実践躬行に就て、飾りの無い処を談話し得るわけにもなる。談話をする朝になつて、漸く当日談話する章句の辺を一寸繙いて見たくらゐでは、用意が甚だ行届いて居らぬ次第と申すべきだが、用意の無い所に却て又或る妙味が無いでも無からうかと、勝手ながら思ふのである。さて「為政」篇の篇末に
との章句がある。孔夫子に質問を致したといふ「或る者」の誰であつたかは、素より之を知るべき由も厶らぬが、兎に角、当時の社会に相当有力な人物であつたらしく、孔夫子を一つ皮肉つて苦めてやらうとの魂胆から、稍〻嘲弄の意味合で、斯る質問を発したものかと私には存ぜられる。
孔夫子が純然たる学者になられ、三千にも余る弟子を容れて道を説かれ、書を編まれるやうになつたのは、魯の哀公十一年、御齢が六十八になられてから後のことで、それまでは孰れかと申せば政治家であらせられた。政治家と申しても、春秋の政治家の如く、自己の功名利達の為に政を行はうといふのでは無い、仁義の為に政を行はうとせられたのである。
今回大隈伯に於かせられては、一旦辞表を提出せられたるにも拘らず、時局を拾収するに堪ふるものが他に無いからとの事で、内閣改造の上、再び元の如く居据られたのであるが、居据り内閣の御趣意が果して孔夫子の御志と同じで、大隈若し朝に在らずんば、仁義の政を如何せんとの御心情から来たものか何うか、この辺の処は今私より申し上ぐべき限りで無い。大隈伯には必ずや春秋に於ける政治家の如き御心情など、毛頭在らせられぬものと私は信ずる。
然し、世間から所謂政治家と称せらるゝ人々には、兎角真実が足りぬやうな傾きのあるもので、人を見さへすれば、何んでも之を道具に使はう使はうといふ事計りを考へる癖がある。従つて、道具に使つて役に立つてる間は、大に其人を尊敬するやうな風に見せて大事にもするが、既う使ふ丈け使つて用が無くなつたとなれば、秋が来て団扇を棄てでもする時のやうに、これまで随分、自分の利益を計つて呉れた人をも忽ち棄てて顧みぬまでになり勝ちなものである。
孔夫子に仕官の御志があつて、政治に干与して見たいとの御一念から、或は斉の景公に仕へようとせられたり、或は魯の定公に仕へられたり、或は又衛の季康子、楚の輙公などに用ゐられんとしたり、其他曹に行き宋に行き、鄭に行き陳に行き、蔡に行かれたのも、畢竟するに仁義の道を行はうとの御所存からである。然るに、当時の諸公や群雄には、孔夫子の斯の至大至高なる御意を解し得るものが無かつたので、一度は孔夫子を用ひて見ようとの気を起し、或は又魯の定公の如く実際に重用して見るものがあつても、根本の思想に於て孔夫子とは墨と雪ほどにも相違して居る処より、結局、遂に折合はなくなつてしまふのが例であつた。
これと云ふのも、当時に於ける所謂政治家が、一意、功名利達を以て終生の目的とし、敢て他を顧る暇が無かつた為である。是に於てか孔夫子を此の目的を達する道具に使ひ得ると思ふ間は、諸公も礼を厚くして孔夫子に対し、或は孔夫子を聘せんとし、或は孔夫子を聘しもしたが、愈々道具に使へぬことが明かになつて来れば忽ち棄ててしまふ事になるから、孔夫子も、足の塵を払つて諸公の許を去らねばならぬやうになられたものである。孔夫子に「奚ぞ政を為さざる」との質問を発した「或る者」は、斯く孔夫子が寧日無きまでに到る処を駈けずり廻られて、仕官の念頗る急なるに拘らず到る処に用ひられず、毫も成功を収めずして失敗に失敗ばかり重ねて居らるゝのを見、「口で政治を説くばかりでは駄目だ、少し実際の御手腕を拝見さして戴きたいものだ」と嘲りながら斯く皮肉に質問したのである。
故桂公も流石に豪い政治家であらせられた丈けに、済生会設立の計画が起つた当時なぞは、不肖の私でも何かの御用に立つものと思召されたものか、大層私を珍重せられて、一にも渋沢二にも渋沢、「渋沢さん渋沢さん」と声を懸けて下されたものである。桂公が果して私を済生会設立に都合の良い役に立つ道具だと思はれて斯く私にチヤホヤされたものであるか何うか又済生会が愈〻首尾よく設立せられてしまつた後の桂公が私に対して如何であつたか、など云ふことも今私より申上ぐべき限りで無いが兎に角済生会創立当時に桂公が一にも二にも「渋沢さん渋沢さん」と私を大切にして下された事だけは事実である[。]
孔夫子も初めて諸公に見えられたばかりや、或は庸聘せられたばかりのうちは、諸公の眼より我功名利達を遂ぐるに恰好の道具であるかの如くに目せられ、チヤホヤと大切に扱はれもせられたらうが、役に立つ間だけ使つてしまへば、元来が仁義を行はんが為に政治に干与せられたる孔夫子のこと故、諸公の眼よりすれば、用の無いのみか却て邪魔になる所謂無用の長物たるが如き観を呈したわけのものである。之が、孔夫子の到る処に於て長く政治に関係し得られなかつた所以である。
孔夫子に質問の矢を放つた「或る者」は這辺の消息が解らずして皮肉に冷評的質問を試みたのであるから、私の如き不肖のものならば忽ち怒気心頭に発し「糞を喰へ、そんな皮肉を曰はれ、冷評かされなんかして堪まるものか」と憤つてしまふ処だが、流石に孔夫子には凡人の及ぶ能はざる偉大な人格があらせられたので、毫も怒らるゝ如き模様なく――否な、皮肉られたとさへ御気が付かなかつたかの如く、意想外なる書経「君陳」篇の語を引き、淡然として之に答へられたのである。
茲に孔夫子が引用せられた書経「君陳」篇の語を其儘に申上げると「君陳能孝親。友於兄弟。又能推広此心。以為一家之政。」(君陳能く親に孝に、兄弟に友に、又能く此の心を推広して、以て一家の政を為す。)といふのが其全文である。これは、周の成王が其臣君陳の徳を褒められた時の語で、君陳が親に孝に、兄弟に友なる処は、まさしく是れ一の仁政である、之が一家より惹いて一国の政治に及ぶのだ、との意味である。
政治とは必ず一国の朝に立たねば行へぬものと思はば大なる間違ひである。世の中には施さざるの慈善あり、又、書を読まざるの学問ある如く、政治ならざる政治もある。人の日常生活を離れて外に政治は在り得べきもので無い。人若し仁義礼智信の五常を以て其日々を律すれば、その人の日常は是れ即ち王者の仁政である。禅を修められた御篤志の方々なぞより能く即身成仏と申す事を承るが、矢張同じ意味のものだらうと存ぜられる。孔夫子ほどの大聖人に成られる[るれ]ば、政治と日常の御生活との間に最早や区別が無くなつてしまひ、二にして一、一にして二といふ事になる。
孔夫子は此の意味に於て「或る者」が発した皮肉の質問に答へられ必ずしも官に就き位に上り、政治向の事に干与するばかりが政治を取ると申すのでは無い、政は敢て仕官をせずとも日々取つてゆけるものである、兄弟に友に、四海に仁義を施くのが即ち王者の政である。故に強ひて世間に所謂政治家となる必要なぞ更々無い、仁義礼智信の道を歩むのが是政治では無いか、との反問を発せられて、「或る者」の冷評的質問を退治せられたのである。是処に常人と全く其選を異にした孔夫子の偉大なる御人格がある。
徳川幕府の中葉より行はれ始め、神儒仏三道の精神を合せ、平易なる言語を用ひ、極卑近にして而も通俗な譬喩を挙げて実践道徳の鼓吹に力めたものに「心学」と申すのがある。八代将軍吉宗公の比、石田梅巌始めて之を唱へ、かの有名な「鳩翁道話」などこの派の手に成つたものであるが、梅巌の門下よりは手島堵庵、中沢道二などの名士出でこの両人の力により心学は普及せらるゝやうになつたものである。
私は曾てこの両人の中の中沢道二翁の筆になつた「道二翁道話」と題せらるゝ一書を読んだ事がある。そのうちに載つてる近江の孝子と信濃の孝子とに就ての話は、未だに忘れ得ざるほど意味のある面白いもので、確か「孝行修行」といふ題目であつたかの如くに記憶して居る。
その名は何と申したか今明確と覚えて居らぬが、近江の国に一人の有名な孝子があつた。夫れ孝は天下の大本なり、百行の依て生ずる処と心得て、日夜その及ばざるを唯惟れ恐れて居つたが、信濃の国に又有名なる孝子在りと聞き及び、親しく其の孝子に面会して如何にせば最善の孝を親に尽すことの能きるものか、一つ問ひ訊して見たいものだとの志を懐き、遥々と野越え山越え谷越えて、夏なほ涼しき信濃の国まで態々近江の国から孝行修行に出かけたのである。
漸々にして孝子の家を尋ね当て、其家の敷居を跨いだのは正午過であつたが、家の中には唯一人の老母が在る丈けで実に寥しいものである。「御子息は」と尋ねると「山に仕事に行つてるから」との事に、近江の孝子は委細来意を留守居の老母まで申述べると「夕刻には必ず帰らうから、兎に角上つて御待ち下さるやうに」と勧められたので、遠慮なく座敷に上つて待つてると、果して夕暮方に至れば、信濃の孝子だと評判の高い息子殿が、山で刈つた薪を一杯背負うて帰つて来られた。そこで、近江の孝子はこゝぞ参考の為に大に見て置くべき所だらうと心得て奥の室から様子を窺つてると、信濃の孝子は薪を背負つたまゝで縁に瞠乎と腰を掛け、荷物が重くつて仕様が無いから手伝つて下して呉れろと、老母に手伝はして居る模様である。近江の孝子は先づ意外の感に打たれて猶窺つてるとも知らず、今度は足が汚れて居るから浄水を持つて来て呉れの、やア足を拭うて呉れのと、様々勝手な註文ばかりを老母にする。然るに老母は如何にも悦ばしさうに嬉々として信濃の孝子が言ふまゝに能く忰の世話をして行るので、近江の孝子は誠に不思議な事もあればあるものと驚ているうちに、信濃の孝子は足も綺麗になつて炉辺に坐つたが、今度は又有らうことか有るまいことか足を伸して、大分疲れたから揉んで呉れと老母に頼むらしい模様である。それでも老母は嫌な顔一つせずに揉んでやつてる中に、はるばる近江からの御来客があつて奥の一間に通してある由を忰に談ると、そんならば御逢ひしようとて座を起ち、近江の孝子が待つてる室にノコノコやつて来た。
近江の孝子は一礼の後、信濃の孝子に委細来意を告げて孝行修行の為来れる一部始終を物語り、彼是れ話し込むうち早や夕飯の時刻にもなつたので、信濃の孝子は晩餐の仕度を仕て客人に出すやうにと老母に頼んだ様子であつたが、愈〻膳が出るまで信濃の孝子は別に母の手伝をしてやる模様もなく、膳が出てからも平然として母に給仕させるのみか、やれ御汁が鹹くつて困るとか、御飯の加減が何うであるとかと、老母に小言ばかりを曰ふ。そこで、近江の孝子も遂に見かねて、「私は貴公が天下に名高い孝子だと承つて、はるばる近江より孝行修行の為罷出でたものであるが、先刻よりの様子を窺ふに、実に以て意外千万の事ばかり、毫も御老母を労はらるゝ模様のなきのみか、あまつさへ老母を叱らせらるゝとは何事ぞ、貴公の如きは孝子どころか不孝の甚しきものであらうぞ」と、励声一番、開き直つて詰責に及んだのである。之に対する信濃の孝子の答弁が又至極面白い。
「孝行々々と如何にも孝行は百行の基たるに相違厶らぬが、孝行をしようとしてする孝行は真実の孝行なりとは申されぬ。孝行ならぬ孝行が真実の孝行である。私が年老いたる母に種々と頼んで足を揉ませたりするまでに致し、御汁や御飯の小言を曰つたりするのも、母は子息が山仕事から帰つて来るのを見れば定めし疲れてることだらうと思ひ「さぞ疲れたらう」と親切に優しくして下さるので、母の親切を無にせぬやうにと足を伸ばして揉んでもらひ、又客人を饗応すに就ては定めし不行届で子息が不満足だらうと思うて下さるものと察するからその親切を無にせぬ為御飯や御汁の小言まで曰うたりするのである。何でも自然のまゝに任せて、母の思ひ通りにしてもらふ所が、或は世間で、私を孝子〳〵と言ひ囃して下さる所以であらうか」といふのが信濃の孝子の答であつた。これを聞いて、近江の孝子も翻然として大に覚り、孝の大本は何事にも強ひて無理をせず、自然のまゝに任せる処にある、孝行の為に孝行に力めて来た我が身にはまだ〳〵到らぬ点があつたのだ、と気付くに至つたと説いたところに「道二翁道話孝行修行」の教訓がある。
孝行ばかりでは無い、政治も矢張り同じことである。政治ばかりでは無い、世間の一切万事皆同じ事である。孝行も孝行をしようとしてすれば却つて孝行にならぬやうに、政治をしようとしてすれば却て真実の政治にならぬものである。孝行ならぬ孝行が真実の孝行になるやうに、政治ならぬ政治が真実の政治になるものである。孔夫子が政を行はうとさへすれば、強ひて位に上り官に就かずとも政は行ひ得られるものだと仰せになつたのは、此処の消息を指して曰はれたものである。如何にも孔夫子が仰せられた通りで、孔夫子はその胸中に蘊蓄せられた政道の抱負を官に就き位に上つて実行せられるわけには参らなかつたに相違ないが、孔夫子の道の伝へられた処には、唯に孔夫子御在世の時代のみに限らず、又支那の一国一州否な支那全国四百余州のみに限らず、海外の日本に於てまでも御在世当時野に於て孔夫子が唱へられた仁義の政を天下に施いて民福の増進を計らうとの志を懐く千百の政治家を生じ、孔夫子は敢て政を為すを為さずして、却て東西に亘り古今を通じ、広く且つ永く政を為したも同じことになられたのである。孔夫子が政を為すを為さずして為された政は、僅に一国宰相の印綬を帯び、僅々三四年の間に行ふ常人の政以上に値する古今独歩の大なる政治であつた。この意味に於て政を為すを為さゞりし孔夫子は今の所謂政治家の夢想にだも及ぶ能はざる大政治家である。
私も明治六年以来全く官途に念を断つて、一意民業の発達に及ばずながら力を致して来たのであるが、それでも全く政治に関係が無いものとは思はぬ。仮令孔夫子の如く広く且つ永くは無いにしても、是も亦、政を為さずして為す政のうちであらうかと、僣越ながら存ずるものである。私は、久しい以前より東京養育院の事業に関係し、今日でも不行届勝ながら其の御世話を致して居るが、之なぞも素より私が一身の功名栄誉の為にするのでも何でもない。孔夫子の論語に説かれた「惟れ孝に、兄弟に友に、有政に施す、是れも亦政を為すなり」の遺訓を服膺し、斯る事業に力を尽すのも亦つまりは政を為さゞる政で、少しは国家政治向の御利益にならうと思ふからの事である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.685-690
底本の記事タイトル:二〇〇 竜門雑誌 第三三一号 大正四年一二月 : 実験論語処世談(七) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第331号(竜門社, 1915.12)
初出誌:『実業之世界』第12巻第17号(実業之世界社, 1915.09.01)