デジタル版「実験論語処世談」(47) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.366-370

君子篤於親。則民興於仁。故旧不遺。則民不偸。【泰伯第八】
(君子親に厚ければ則ち民仁に興り。故旧を遺れざれば則ち民偸《うす》からず。)
 此句の本旨とする所は、民を化するには始めを修むるに在りと云ふので、一国の天子となるものが心懸けねばならぬ事を説かれたものである。三島先生の説も其の通りであるが、又亀井南冥先生が論語語由に於て、「尭舜率天下以仁。而民従之是也」と大学の句を引用し説明されたのも、矢張り同じ意見である。君子たるものが親に篤ければ、人民一般も自然と之に感化されて親に篤くなり、民の風が勃然として興るに至り、八ケ間敷法制とか禁令とか云ふには及ばなくなる。一家の内に於てもさうであつて、主人が親切であれば、子供や僕婢も之れに倣つて親切になり、若し之れに反して主人が不親切であり軽薄であれば、之れに従つて子供や僕婢も亦不親切となり軽薄となつて来る。是等は極く小さい例であるが、上の者の行ひが自然下の者の行ひの規範となるべき点に於ては等しいのである。而して茲に親と言ふのは、単に親と云ふ意味ではなく、祖先は固よりの事、親戚故旧を指して言ふのである。
 次に「故旧を遺れざれば民偸からず」とは、自然一般の民風が軽薄にならずして極く情愛に富むことを云ふのである。是も其通りであつて、一国の主たる君子が極く情に篤いと云ふと是に従ふ所の人民も亦随つて情に篤くなり、軽薄の気風は次第に消滅して了ふのである。而して斯くの如き風は独り大なる国家に於てのみならず、小にしては会社、銀行に於ても其通りである。夫々其上に立つ人のやり方如何に依つて其下に居る人々の風習を如何様にでもする事が出来るのである。
 例へば三井、三菱の如きもさうであつて、初め三菱は英吉利風で凡ての事を行ひ、三井は亜米利加風で何事も処理して居つたが為に、自然夫れが会社の社風を成すに至つて各〻特徴を有すると云ふ工合である。私の長く経営して居つた第一銀行の如きも矢張一つの特徴を有して居る。新進の風には乏しいけれども、論語の主旨の通り、親に篤く故旧を遺れずと云ふ主義を以て、終始一貫第一銀行の行風として来た積である。されば、今でも第一銀行に於ては多数の行員が恰も親戚ででもあるかの如く情に篤く、お互ひが親切に交際して居る。私の関係して居つた所の事を言ふのは余り面白くないかも知れぬが、之れは私が確く信じて居る事であつて、少しも誇張するが如き事は無いつもりである。
 又、斯くの如き淳朴の風習を一般の工業会社等にも盛にして、お互ひの交情を篤くし、上に立つ者が先に立つて手本を示すと云ふ事になれば、今頃八ケ間敷なつた労働問題も喧々囂々の声を静め、協調会等と云ふものも、必要が無くなつて来る。況んやストライキ等の起りやうがないのである。
 されば大は一国を始めとして一会社一工場一家に於て、上に立つものが斯くの如き風習を盛んにすることに努めたならば、天下を挙げて悉く淳朴の風に満ち、平和の世と化して夫々生を楽しむ事が出来るのである。今日世間一般の風習が漸次軽薄になつて行くと云ふことは、誠に遺憾の事と言はねばならぬ。
曾子有疾。召門弟子曰。啓予足。啓予手。詩云。戦戦兢兢。如臨深淵。如履薄氷。而今而後吾知免夫。小子。【泰伯第八】
(曾子疾有り、門弟子を召して曰く、予が足を啓け、予が手を啓け、詩に云ふ、戦戦兢兢として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し。而して今にして後吾免るることを知るかな、小子。)
 曾子は孔子の門下に於ても、孔子の心中を良く理解し、孔子の学説を後世に伝へることに於て非常に功の有つた人である。日本にもお茶の水橋の聖廟に孔子の像があるが、之れに四配として顔子、曾子、子思、孟子の四人の像を左右に配して居る如く、孔門の幹部の人であつた。此曾子は非常に親孝行の人であつて、支那の二十四孝の一人として有る。夫れによると、或る時曾子が山に木樵に出掛けて行つて居た時、母が急に曾子に会ひたくなつたが、之れを曾子に知らせる事が出来ぬ。そこで指を喰ひ切つたと云ふことである。すると山に居た曾子の心中に霊感するものがあつて、何か母上の身の上に異変の有ることが知れた。曾子は急いで家に帰り母の身の上に異りは無いかを聞いて見た処が、母は曾子に会ひたくて指を喰ひ切つたと云ふのであつた。斯くの如きことが事実有つたか何うかは断言出来ぬ。余りに極端のやうにも思へるが、事実は兎に角として、之れを以て見ても、曾子が如何に親孝行の人であつたかと云ふことが知れる。
 斯様に親孝行の人であるから、親から譲られた身体は之を少しも毀傷せず、完全にして親に反さねばならぬと思ひ、平生身を守るに深く心を用ひ、丁度詩に云ふ戦戦と恐懼し、兢兢と戒謹して、深き淵に臨みて墜ちんことを恐れ、薄き氷を履みて陥らんことを恐るるが如くにして努めたのである。然も今や死して此の身を終れば、身体を毀損しはせぬかと云ふ心配から免るる事が出来るのであると、多くの門人共を呼び集めて、其身の少しも毀傷の無きことを示しつつ、懇々と親孝行の事に就いて説き聞かせたのである。
 然し之れを字義通りに解すると余り極端になつて、只身体を傷つけさへせねば良いと云ふことになり、他に色々の故障が起きて来るやうになる。曾子の場合に於ては、幸ひ一生を通じて毀傷することなく、身を完くして反すことが出来たのであるが、之れを誰人にも又如何なる場合にも当嵌めると云ふ訳には行かぬ。日本にも何程も例の有る事で、充分親孝行であり乍ら然も身命を捨てたものは多いことである。橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎等の如き夫れである。又私にしても明治の初年屡〻死を決したことが有る。更に又適切の例を言うて見ると、一国の安危に関する大戦争に軍人として出征した場合、親を想ふの余り敵を後にして帰つて来たとしたら、之れは決して親孝行と言ふことは出来ぬ。
 斯くの如く、立場を異にするに従つて一概に論断することは出来ぬが、親より受けた身体は、よく注意して之を濫りに毀傷するが如きことなく孝行を完うせねばならぬと云ふ本旨はよく説かれてあつて、吾吾の大に学ばねばならぬ処である。
 近頃西洋の個人思想の流入の結果からか、世の中の親子の関係が次第に薄くなつて行くと云ふことは、甚だ遺憾に堪へぬところである。殊に若い青年に此情が薄れて行くと言ふことは、非常に慨嘆すべきことである。世の中と云ふものは、決して理性のみでやつて行かれるものではない。必らず其処に情合の深いものがなければならぬ。然も君に忠、親に孝と云ふことは日本の国風であつて、日本の家族制度の下に於ては必然のものである。殊に近頃屡〻聞くことで、子供が親に向つて、親は子供を教育するの義務が有ると云うてゐる。然し若し子供が親に向つてさうしたことを要求するならば、先づ子供たるものは親に孝を尽すの義務を忘れてはならぬ。自分の都合の良い事ばかり要求して自分の務めを忘れると云ふことになれば、秩序と云ふものは廃れて了ふことになる。今日の世の中に段々忠孝と云ふものが衰頽して行くと云ふことは、返す返すも残念のことで、私は之れを是非とも改善せねばならぬと思ふのである。
曾子有疾。孟敬子問之。曾子言曰。鳥之将死。其鳴也哀。人之将死。其言也善。君子所貴乎道者三。動容貌。斯遠暴慢矣。正顔色。斯近信矣。出辞気。斯遠鄙倍矣。籩豆之事。則有司存。【泰伯第八】
(曾子疾有り、孟敬子之を問ふ。曾子言て曰く、鳥の将に死せんとする、其の鳴くや哀し。人の将に死せんとする、其言ふや善し。君子の道に貴ぶ所の者三つ、容貌を動かして斯に暴慢を遠ざく。顔色を正うして斯に信を近づく。辞気を出して斯に鄙倍を遠ざく。籩豆の事は、則ち有司存す。)
 此章は前の章と同じく、曾子が病床に於ける折の言葉であつて、孟敬子と云ふ人の問ひに答へて言つたものである。恐らく之れは曾子の末期の言葉であつたらうと思ふ。
 籩豆と云ふのは祭式の道具の一種であつて、多く祭式の飾りとして用ひられるものである。此籩豆の事に就ては、夫々役人が在つて夫々受持ちで処理して行くから、上に位する所の君子が、是に就て何う斯うする必要はない。君子は君子として守るべき道が有るから、夫れを良く守らねばならぬ。道とは、容貌を動かして暴慢を遠ざけ、顔色を正しくして信に近づき、辞気を出して鄙倍を遠ざくと云ふ三つの道であると云うて、孟敬子の如く、多数人民の上に立つものを戒めたのである。
 鳥の将に死せんとする其鳴くや哀し、人の将に死せんとする其言ふや善しと云ふのは、人も鳥も愈々死んで行くと云ふ場合には其の真情を吐くものであると云うたのである。で曾子が孟敬子を戒めるに当つて、自分の語る言葉が末期の言葉で、充分真情を吐露するものである事を先づ知らせ、斯くの如き真情を吐露して談るものであるから、充分心して守らねばならぬと云ふことを説かれたのである。
 是に就ても深く感ずるのは、最近に於ける森村翁の死去である。私は親戚と云ふ関係でも何でも無いのであるが、四五回程お見舞に行つた。最も重病の事とて面接して話すと云ふ訳にも行かぬから病床に通つたのは其中一回丈けで、後は只病状を伺つて帰るのみであつた。
 何しろ胃の幽門部に可成り大きい癌腫が出来て、悉り食道を絶つて了つたのであるから、長い間に亘つて全く絶食であつた。で翁も死は免かれぬと決心して居られたことと思ふ。
 翁は以前から熱心な基督教信者であつて、確固たる信心に従容として死に就かれたのである。其病床に於ける一回の会見に於て翁の曰く「世の中のことは凡て神の命に従つて行ひさへすれば差支へはない。今世の中が甚だ憂ふべき状態に陥つて居るとき死することは甚だ残念であるが、私は軈て神の側に行かねばならぬ。で残る君は大いに世の為に力を尽して貰ひたい」と、大体さう云ふやうな意味の言葉であつた。之れに対して「私一人貴方に代つて力を尽すと云うても到底及ばぬことであるが、出来る丈けの力は少しも惜まぬ。然も人の体は死しても精神は消えるものではない。此意味に於て貴方も私も、永遠に世の為に尽すことが出来ると思ふ。充分安心して御養生しなさい」と大略さう云ふやうなお答へをして退いたのである。
 然も其後日ならず遂に死去されたことは実に残念の事であるが、翁の此末期の言葉は誠に日頃高潔な翁の真情を吐露されたものであつて深く感ずるのである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.366-370
底本の記事タイトル:二九七 竜門雑誌 第三七八号 大正八年一一月 : 実験論語処世談(第四十七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第378号(竜門社, 1919.11)
初出誌:『実業之世界』第16巻第10号(実業之世界社, 1919.10)