デジタル版「実験論語処世談」(64) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.534-540

樊遅問仁。子曰。愛人。問知。子曰。知人。樊遅未達。子曰。挙直錯諸枉能使枉者直。樊遅退。見子夏曰。郷也吾見於夫子而問知。子曰。挙直錯諸枉。能使枉者直。何謂也。子夏曰。富哉言乎。舜有天下。選於衆。挙皐陶。不仁者遠矣。湯有天下。選於衆。挙伊尹。不仁者遠矣。【顔淵第十二】
(樊遅仁を問ふ。子曰く。人を愛せよと。知を問ふ。子曰く。人を知れよと。樊遅未だ達せず。子曰く。直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむと。樊遅退いて、子夏を見て曰く。郷に吾れ夫子に見えて知を問ふ。子曰く。直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむと。何の謂ぞや。子夏曰く。富めるかな言や。舜、天下を有ち、衆に選び皐陶を挙ぐれば、不仁者遠かり、湯、天下を有ち、衆に選び伊尹を挙げて、不仁者遠ざかれり。)
 この章句は最も判り易く、仁知を説いたものである。樊遅が仁を問うたに対して孔子は人を愛せよと云つた。又知を問うたのに対して人を知れと答へた。即ち仁をなさうとするには、人を愛すると云ふことが先きにしなければならぬ。知を知るには人を知ることが先きでなければならぬと答へた。けれども孔子の此答は余りに平凡なので之れを疑つた。すると孔子は更に直き者を上に置くと、下にある枉れるものも之れに感化されて直くなると説かれた。即ち良い者を挙げて之れを尊重して居ると、その下にあるものは何故に彼が尊重されるのであらうかと考へる。そして彼は正しい為めに挙げられ、而も尊重されるのだと云ふことが判る。そこで自分も又かうならうと云ふ風になる。例へば正直な人が上に挙げられて尊重されると、彼の人は正直だからであると思つて下のものも之れに倣つて正直になる。勉強する人が上にあれば、他の人も皆勉強するやうになり、社会の人も亦その通りになるものである。
 けれども樊遅は未だその意を覚ることが出来なかつたので、子夏に向つて更に、私が先きに孔子に知を問うたが、その答へには直きを挙げて枉れる者を錯けば能く枉つたものを直くすると言はれたが、之はどういふことであらうか、子夏は之れを聴いて先づ孔子の答へのたつぷりとした言葉であると感歎した。そして舜が天下を治める時に、衆人の中から皐陶を選んで挙げたが為めに、民は化して仁人となつた。又湯が天下を治める時に、衆人の中から伊尹を選んで用ゐたが為めに不仁者は隠れて現はれなかつた。
 直きを挙げたが為に、正しくなつて悪いものが出なかつたり、悪い者を挙げたが為めに、正しきものが現はれないと云ふことがある。貨幣などでもグレシヤム法と云つて、悪貨は善貨を駆逐して仕舞ふので悪貨が出ると善貨は隠れて現はれない。之を実際の例に取つて見ると色々ある、彼の日比谷の議会は悪い者を挙げたが為めにその結果も悪くなつた。併しこんなことを云ふとさしさわりが出来たりするからこの位にして置くが、昔の例に取るといくらもある。
 徳川幕府に於ても田沼意次が用ゐられた時代は幕府の政治の乱れた時である。これは直きを挙げ用ゐることをしなかつた為めである。田沼が老中の首座となり、其党水野出羽守忠友、米倉丹後守、稲葉越中守正明を要地に配し、宮中、府中の権を掌握し、己の意の如く振り廻さんとしたからである。併しながら、何時まで田沼をしてその権を擅にしては置かない。家治将軍の薨去と共にさしもの権力も消滅して仕舞つた。そして之れに代つたものは松平定信、楽翁と言はれた人である。田沼時代には官職を売買されたり賄賂は公然の秘密に行はれた。そして士民は日夜遊楽三昧に耽つて、世は挙つて堕落して、殆んど収拾することが出来ない程であつた。
 楽翁は誠実敦厚で、又清廉純潔の人であつた。為めに卓励風発的にこの弊風を一掃せんことを期し、質素倹約を勧め奢侈を禁じた。又士人の文武の教養を励ました。為めに士風が矯正されたのである。これなどは確かに直きを挙げたが為めに、下をして直からしめたものと云ふことが出来る。けれども、田沼の勢力は殿中に蟠居して居たので、楽翁でさへ自由に其手腕を発揮することが出来なかつた。のみならず寧ろ田沼の残党の為めに、楽翁も職を罷めなければならぬやうになつた。これは寛政五年で甚だ惜しむべきことであるが、正しき楽翁を挙げたことによつて、下をして正しくなし得たことは事実である。
子貢問友。子曰。忠告而善道之。不可則止。毋自辱焉。【顔淵第十二】
(子貢友を問ふ。子曰く。忠告して善く之れを道く。不可なれば則ち止む。自ら辱めらるることなかれ。)
 本章は子貢が孔子に朋友に交る道を問うたのに対し、友の過ちに陥らんとする場合に之を忠告して善に道くやうにしなければならぬと教へ、若し又、朋友が忠告を用ゐなかつたならば、親兄弟などとその親しみに違ひがあるから、忠告を再びするものでない。さすれば辱を受けることもないと云ふことを教へられた。「君に屡々すれば疎んぜられ、友に屡々すれば辱めらる」と云ふことがあるのも之れで、一度忠告して聴かれなかつたならば、再びしないのが、朋友に交る順序であると云ふのである。
 併しこれも程度の問題であつて、どうしてもかうでなければならぬと云ふものでない。成る程、朋友は親子の関係の如きものでないけれども、事柄の軽重によつて屡々友を諫めることもあるべきもので、さう云ふ場合には、この論語の言葉に当て嵌めることは出来るものでない。或る時にはどうしても聞いて貰はなければならぬこともある。此処にはかう云ふ風に教へて居るけれども、朋友は時に兄弟よりもその交りが厚いものもある。故にこの文章にのみ拘泥して断ずることは出来ない。常識を以てかう云ふ点を判断すべきである。
 今私の友人の間に之れを求めて見ると、玉乃世履との関係である。玉乃は民部省、私は大蔵省であるが、相並んで昇進して来た関係から一方は法律家であり、私は実業家として立つたけれども親しく交りを続けて来た人である。殊に玉乃は漢学を好み、私も論語を読んで居る関係から時々教へを受けたこともある。又説を立てて論じ合つたこともあるが、其の中に面白いのは、米穀取引所の限月売買に就いての議論であつた。米穀取引所と云ふのは余り俗であると云ふので商社と直したこともある。この取引所の限月取引を玉乃さんは空米取引であるから法律を以て禁止しなければならぬと云ふ。私は成る程この取引は投機となることもあるかも知れないが、商であるから禁ずるものでないと云ふのである。併し玉乃は限月相場は禁止しなければならぬと云つて下らない。私と井上は之を禁止すべきものでなく、之れを禁止するのは心得違ひであると云つて下らない。所謂議論は結んで解けないと云ふ状態にあつた。
 処がその当時フランス人でボアソナードと云ふ法律家が来朝した。すると玉乃は直ちにこの人に就いて限月取引禁止の可否に就いて聞いた。其当時(明治七年)私は大蔵省を辞めて銀行家となつて居た時である。然るに或る日玉乃は私を訪ねて来たので、何故に来たかどうせ来るなら忙しくない時に来て貰ひ度いと云ふと、実は是非お前に改めて言ふから能く聴いて貰ひ度い。之れは決して負惜しみの為に云ふのではない。曾つてお前と限月取引の可否に就いて議論をしたが、お前の議論には到底承服することは出来なかつた。処が、今日になつて私の議論の間違つて居ることが判つたので、自分の不明を耻入つて居る訳だ。実はボアソナードに就いて、その可否を聞いた所、色々な例を引いて、限月取引は到底法律を以て禁止することが出来ないことを知つたので、今までの私の見解を捨てて、お前と井上の説に降伏すると云つた。そして今日になつて考へて見ると、井上とお前の二人に能く議論を戦はしたけれども、之れを法律的に説明して呉れないものだからどうしても私には承服することが出来ない処であつた。が、併しお前達は法律を知らないけれども、真の法律を有つて居たことが今日になつて初めて判つた。そして先見の明のあつたことを感心すると同時に、私の不明を謝すると言はれたことがある。私はこの言葉を聴いてかう云ふ人こそ本当の君子人だと思つた。如何にも私を知つて呉れるものならば、謝するにも吝ならぬと云ふことに敬服したのである。かうして見たならば玉乃は如何に高潔な人であつたかを推知することも出来る。
 又、私が大蔵省を辞める時に忠告をして呉れたのもこの玉乃であつた。そして私が銀行者となる時に会見して忠告をして呉れた。その時に、渋沢の今日をなしたのは代々の百姓が自分の力でなつたと違つて立派な家柄を有つて居り、それに大蔵省に這入り、而も相当の才能があるのと、機会を得て有為の先輩の信認を得て昇進しつつある。故に朝にあつて活してさへ居れば、自分の意見も行はれ、才能は伸びるではないか。然るに何を苦んで政府に背いて去り、而も商売人となると云ふのが甚だその意を得ない。殊に商買人を見ると悪い者が多いのにその中に飛び込んで、之れを良くしようとしてもそれは一人の力では出来ない。従つてよい結果も得られるものではない。寧ろ知らず識らずの中に自分も之れに染められて赤くなるではないか。よしや金持になることが出来るかも知れんが、国家の為にはならんから初志を貫くことは止めたがよい。若しこの忠告を入れないで、何処迄もその位地を去るとせば、昔の観念を捨てたやうに思ふ、と云つて私の実業につくことを切実に諫めて呉れた。
 私もこれに対しその行為を感謝するが、私の実業に就くと云ふことは、自分の為めに図るものとするのは誤解であつて、自分の為めにも図るが国の為めにも図る考へである。尤も微力で或は何も出来ないかも知れないが、出来る丈け努力をしたいと思つて居る。勿論官途に居るやうに素寒貧で居つては何事も出来ないから、富を有つて相当の位地を有つこと丈けはやる。併し如何に私が実業に従事したからと云つて、国家の富と、自分の富との区別丈けは知つて居る積りである。今は理財がなければ国家の富を図ることが出来ないものと感じて居るけれど、今も猶昔の家を出た時のやうに国の為めに尽さうとして居る。若し又この考へも違つて、偏に自分の為のみを図るやうな時があつたら、その時は諫めて下さい。けれども決してそんなことに誤らん積りであると云つた。そして精神的にも国家の富を殖さんと思ふことから論語の精神を以て銀行をやつて見たのである。かうして私を諫めて呉れた玉乃の如きは真に益友であると云ふことが出来る、
曾子曰。君子以文会友。以友輔仁。【顔淵第十二】
(曾子曰く。君子は文を以て友と会し、友を以て仁を輔く。)
 本章は学をなす為めに友を集めるのは、仁を輔けて己れの徳をなす所以であると説いて居る。以文は仁を輔くる所以であつて知行合である。然るに朱註には知行を分説して居るのは、本文の意ではないだらうと三島先生も説かれて居る。
子路問政。子曰。先之労之、請益。曰。無倦。【子路第十三】
(子路政を問ふ。子曰く。之れを先んじ之れに労す。益を請ふ。曰く。倦むなかれ。)
 本章は、子路が孔子に政治をなすべき道を問うたのに答へられたので、上にあるものが民衆に先だつて自らを正しくすれば、民衆も之れに感化される。又身を以て民衆の為めに勤労すれば、民衆も亦上の為めに勤労することになるから政治も善くなると言はれた。けれどもこの簡単な答へ丈けでも能く納得が出来ないので、更にその上に為すべきことは何かと問うた。然るに孔子は唯倦む勿れと教へられた。言はば政治をなすの道は先と労とをなすより外になすべきものなく、倦むことがないに越したことはないと言はれたのである。
 孔子は政治の要諦として此の三つを挙げた。けれども非難する者は或はよい制度を施せば、政治の成績を挙げることが出来るではないかと云ふかも知れない。併し、如何に制度ばかり立派であつても、此精神がなかつたならば、立派な制度も画餅に帰する訳である。即ち陛下に於かせられては、君たちの本分をお尽しになる為めに民衆に先んじ民衆の為めに勤労すれば、民衆も亦之れに感化される。又内閣諸公にしても之れに先んじて労することをすれば、一般民衆は服従して善い政治が出来る。
 之れを更に一家の例にとると、家長たるべき一家の長である者が、この事がよいことであると知つたならば家族に先つて之れを行ふがよい。即ち之れに先つて労すれば家政が善くなる。主従の関係にしてもそれである。家長が働かないで他のものが働かせようとしてもそれは無理である。旧幕時代の諸侯や、富豪などでその遺産を継いだ為めに家産が出来て居る。そして働かないで居ても少しも困らない。けども一朝事あつた場合には、どうすることも出来ず、結局家政が紊乱すると云ふことになる。近い話が、明治維新となつて封建制度が破壊された場合に、諸国の大小名が此が為に非常なる苦境に陥つた。
 故に人は常に人に先つて労して居なければならぬ。さうでないと一国の政治も一家の政治も行ふことが出来ない。労苦することを知らなければ、其処に政治と云ふものもない。労苦のない政治は芝居で、国の為めに何等利益を齎らすものでないと思ふ。孔子のこの答は短い言葉であるけれども、政治の真諦に触れたものとして、孔子のこの徹底的に言はれたことを深く敬服するものである。
 私の一家に就いてもそれである。私はこの頽齢であるが家長となつて居る。それだから一家の各方面に亘つて心を配つて居なければならぬ。例へは勘定の事でも勝手元のことでも、取次、庭掃除でもそれである。そして衆に先んじて働いて、而も之れを倦まずに行つて行けば家政を挙げることが出来る。之れを一国として見ても同様である。文化の発達、外交の刷新、産業の振興と云ふことなども、皆この先と労とが基礎となつて行くのである。
 然るに現在の有様を見るに之れに反することが多い。よいことは人に奨めることを知つて居ても、自分で行ふと云ふことがない。自分では之れをやらぬけれどもお前は先きに之れを行れと云ふ。よいことこそ自分で行つてよいので、自分でやらずに、人にやれと云ふことは無理でもあり、又その効果の上からも決して悦ぶべきことではない。
仲弓為季氏宰。問政。子曰。先有司。赦小過。挙賢才。曰。焉知賢才而挙之。曰。挙爾所知。爾所不知。人其舎諸。【子路第十三】
(仲弓季氏の宰となり。政を問ふ。子曰く。有司を先きにし、小過を赦し、賢才を挙げよ。曰く。焉んぞ賢才を知り、之れを挙げん。曰く。爾が知る所を挙げよ、爾の知らざる所は人それこれを舎ん。)
 本章は政を為すに三要あることを説いたものである。仲弓は孔子十哲の一人で行ひの正しい人のやうである。仲弓は既に季氏の宰(支配人)となつて居つた。そして政治の要諦を問はれたのに対し、孔子は衆職を統ぶる宰たるものは、銭穀兵賦礼制等を分担する要職の官吏に職を行はしめればよい。そして悪をなすものは懲らさなければならぬけれども、過失は時としてあるものである。ましてそれが小過であつたならば之を咎めることをせぬと云ふやうな寛大がなければならぬ。又賢才あるものを進任擢用して職に在らしめると、政事改まつて民はその恵に浴することが出来ると、この三事を政治要務とした。然るに仲弓は更に人は多くして自分は一人である。どうして此の多き中から賢才を知つて挙げればよいかと又問はれた。すると孔子は、汝の知つて居る所の賢才を挙げよ、そうすれば、汝の知らない所の賢才は、人から推薦して来て決して捨てては置かないものである、と説いた。
 この政治の要務から見れば、君主専制政体であつて、今日の立憲政体、共和体とも違ふ。即ち君主は自分の意志によつて政治を自由に行ふことが出来るから、今日の議会政治などとは非常に違つて居る。之れが違つて居るからと云つて、それを批評することは出来ない。何となればこれは政治の仕方であるからである。如何に政体は立憲政制であると云つても、それを行ふものにして正しき人を得なければ、よい政治が行はれるものではない。結局する所政治の善悪は政体の如何によらない。君主政治でもその君主にして民衆に先んじて労し而も倦むことがないと云ふやうであつたら、君主政治必ずしも悪いと云ふことは出来ない。却つて立憲政治よりも善い政治が行はれることもあると思ふ。
 孔子は此処に於て君主政治の要務を説かれて居るが、若し孔子をして今日に在らしめば、矢張立憲政治を説かれたかもれない。然るに孔子を時勢に適しないと云つて非難をするのは、時勢の如何を知らぬへボ政治家の囈語である。
 今日の天文家は、昔の天文学を見て笑ふかも知れないが、その時代を知らぬからであつて、それを知つたならばそんなことが出来ない筈だ。太陽の上るのは地球が廻るからだと云ふことは、今日では何人でも知つて居ることであるが、昔はさうでなかつた。為めに今日でも猶地球が廻ると言はず太陽が上ると言つて居るし、さう云ふことも別に人は怪しまないではないか。賢君、賢相が上に居つて政治を行つたならば、今日の立憲政治などよりよい政治が行はれるかも知れない。即ち職制を決め、小過を許し、野に遺賢なからしむるやうにすれば、その政治は大いに見るべきものがあると思ふ。
子路曰。衛君待子而為政。子将奚先。子曰。必也正名乎。子路曰。有是哉。子之迂也、奚其正。子曰。野哉由也。君子於其所不知。蓋闕如也。名不正則言不順。言不順則事不成。事不成則礼楽不興。礼楽不興則刑罰不中。刑罰不中則民無所措手足。故君子名之。必可言也。言之必可行也。君子於其言無所苟而已矣。【子路第十三】
(子路曰。衛君、子を待ちて政をなさば、子将に奚を先にせんとするか。曰く。必や名を正さんか。子路曰。是あるかな、子の迂なるや。奚ぞそれ正さん。子曰。野なるかな由や。君子は其知らざる所に於て蓋し闕如たり。名正しからざれば則ち言順ならず。言順ならざれば則ち事成らず。事成らざれば則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子之に名くれば必ず言ふべし。之を言へば必ず行ふべし。君子其言に於て苟もする所なきのみ。)
 本章は政は名実を正しくするにあると云ふことを説いたのである。孔子が楚の国から帰つて来られた時に、子路は孔子に問うて言ふには若し衛の君(輒と云ひ、霊公の孫にして蒯聵の子である。先に蒯聵が罪があつて外に居つたので、霊公が薨ずると輒が継いだ。すると蒯聵は帰つて来て衛に入らうとしたが、輒はそれを拒んで入れなかつた。かうした父子の名実相紊れた時に、孔子は衛に帰つて来られたのである。が、夫子の言を待つて政を仕様とせられるならば、夫子は何事を以て先務とせられるかと云ふと、孔子は若しかう云ふことがあれば、先づ必ず名を正しくて実と相当るやうにすると言はれた。それは衛輒の非を指して言つたのであるけれども、子路は之れを察しないが為めに子路は直ちに世間では夫子を迂なるものと言つて居るが、かかることを言ふのであらう。すると孔子は之れを咎めて、由は実に野鄙な者である。君子は己れの知らないことは除いて言はないものである。由は未だ名を正しうすることの先きにすべきを知らないで、我を迂であると云ふのは妄である。さう言つてから正名の必ず先きにすべき所以を説いた。名が正しくなれば言ふことが義理に順はない、義理に順はなければ之れを行ふことが出来ない、行ふことが出来なければ政治も成るものでない、政治が成らなければ礼楽も起らない、刑罰も正しく行かない、礼楽も刑罰も駄目だとすれば民は安んじて居ることが出来ない。人心の不安が除かれない故に君子は名を正しくすることを大切として居る。君子の政治は先づ名を正しく、君臣父子の名実と相当つて言ふことが出来るのでなければならぬ。
 要するにこの問答は、実際に立ち入つてることで、その時の利害得失、家庭の事情を能く知つて居らなければこのやうなことを言ふことは出来ない。故に孔子の言つたのは正しいと思ふ。殊に孔子は非常に常識の発達した人であるから、是等の事情を能く知つて居られたものと見ることが出来る。言ひ換へれば、子路は能くも知らんのに孔子を難じたものと云ふ、と云ふことが出来る。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.534-540
底本の記事タイトル:三五二 竜門雑誌 第四二一号 大正一二年六月 : 実験論語処世談(第六十二《(四)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第421号(竜門社, 1923.06)
初出誌:『実業之世界』第20巻第2,3号(実業之世界社, 1923.02,03)