デジタル版「実験論語処世談」(64) / 渋沢栄一

7. 労は政治の要諦

ろうはせいじのようてい

(64)-7

 之れを更に一家の例にとると、家長たるべき一家の長である者が、この事がよいことであると知つたならば家族に先つて之れを行ふがよい。即ち之れに先つて労すれば家政が善くなる。主従の関係にしてもそれである。家長が働かないで他のものが働かせようとしてもそれは無理である。旧幕時代の諸侯や、富豪などでその遺産を継いだ為めに家産が出来て居る。そして働かないで居ても少しも困らない。けども一朝事あつた場合には、どうすることも出来ず、結局家政が紊乱すると云ふことになる。近い話が、明治維新となつて封建制度が破壊された場合に、諸国の大小名が此が為に非常なる苦境に陥つた。
 故に人は常に人に先つて労して居なければならぬ。さうでないと一国の政治も一家の政治も行ふことが出来ない。労苦することを知らなければ、其処に政治と云ふものもない。労苦のない政治は芝居で、国の為めに何等利益を齎らすものでないと思ふ。孔子のこの答は短い言葉であるけれども、政治の真諦に触れたものとして、孔子のこの徹底的に言はれたことを深く敬服するものである。
 私の一家に就いてもそれである。私はこの頽齢であるが家長となつて居る。それだから一家の各方面に亘つて心を配つて居なければならぬ。例へは勘定の事でも勝手元のことでも、取次、庭掃除でもそれである。そして衆に先んじて働いて、而も之れを倦まずに行つて行けば家政を挙げることが出来る。之れを一国として見ても同様である。文化の発達、外交の刷新、産業の振興と云ふことなども、皆この先と労とが基礎となつて行くのである。
 然るに現在の有様を見るに之れに反することが多い。よいことは人に奨めることを知つて居ても、自分で行ふと云ふことがない。自分では之れをやらぬけれどもお前は先きに之れを行れと云ふ。よいことこそ自分で行つてよいので、自分でやらずに、人にやれと云ふことは無理でもあり、又その効果の上からも決して悦ぶべきことではない。

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, 政治, 要諦
デジタル版「実験論語処世談」(64) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.534-540
底本の記事タイトル:三五二 竜門雑誌 第四二一号 大正一二年六月 : 実験論語処世談(第六十二《(四)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第421号(竜門社, 1923.06)
初出誌:『実業之世界』第20巻第2,3号(実業之世界社, 1923.02,03)