デジタル版「実験論語処世談」(64) / 渋沢栄一

9. 名正しからざれば政事ならず

なただしからざればせいじならず

(64)-9

子路曰。衛君待子而為政。子将奚先。子曰。必也正名乎。子路曰。有是哉。子之迂也、奚其正。子曰。野哉由也。君子於其所不知。蓋闕如也。名不正則言不順。言不順則事不成。事不成則礼楽不興。礼楽不興則刑罰不中。刑罰不中則民無所措手足。故君子名之。必可言也。言之必可行也。君子於其言無所苟而已矣。【子路第十三】
(子路曰。衛君、子を待ちて政をなさば、子将に奚を先にせんとするか。曰く。必や名を正さんか。子路曰。是あるかな、子の迂なるや。奚ぞそれ正さん。子曰。野なるかな由や。君子は其知らざる所に於て蓋し闕如たり。名正しからざれば則ち言順ならず。言順ならざれば則ち事成らず。事成らざれば則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子之に名くれば必ず言ふべし。之を言へば必ず行ふべし。君子其言に於て苟もする所なきのみ。)
 本章は政は名実を正しくするにあると云ふことを説いたのである。孔子が楚の国から帰つて来られた時に、子路は孔子に問うて言ふには若し衛の君(輒と云ひ、霊公の孫にして蒯聵の子である。先に蒯聵が罪があつて外に居つたので、霊公が薨ずると輒が継いだ。すると蒯聵は帰つて来て衛に入らうとしたが、輒はそれを拒んで入れなかつた。かうした父子の名実相紊れた時に、孔子は衛に帰つて来られたのである。が、夫子の言を待つて政を仕様とせられるならば、夫子は何事を以て先務とせられるかと云ふと、孔子は若しかう云ふことがあれば、先づ必ず名を正しくて実と相当るやうにすると言はれた。それは衛輒の非を指して言つたのであるけれども、子路は之れを察しないが為めに子路は直ちに世間では夫子を迂なるものと言つて居るが、かかることを言ふのであらう。すると孔子は之れを咎めて、由は実に野鄙な者である。君子は己れの知らないことは除いて言はないものである。由は未だ名を正しうすることの先きにすべきを知らないで、我を迂であると云ふのは妄である。さう言つてから正名の必ず先きにすべき所以を説いた。名が正しくなれば言ふことが義理に順はない、義理に順はなければ之れを行ふことが出来ない、行ふことが出来なければ政治も成るものでない、政治が成らなければ礼楽も起らない、刑罰も正しく行かない、礼楽も刑罰も駄目だとすれば民は安んじて居ることが出来ない。人心の不安が除かれない故に君子は名を正しくすることを大切として居る。君子の政治は先づ名を正しく、君臣父子の名実と相当つて言ふことが出来るのでなければならぬ。
 要するにこの問答は、実際に立ち入つてることで、その時の利害得失、家庭の事情を能く知つて居らなければこのやうなことを言ふことは出来ない。故に孔子の言つたのは正しいと思ふ。殊に孔子は非常に常識の発達した人であるから、是等の事情を能く知つて居られたものと見ることが出来る。言ひ換へれば、子路は能くも知らんのに孔子を難じたものと云ふ、と云ふことが出来る。

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デジタル版「実験論語処世談」(64) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.534-540
底本の記事タイトル:三五二 竜門雑誌 第四二一号 大正一二年六月 : 実験論語処世談(第六十二《(四)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第421号(竜門社, 1923.06)
初出誌:『実業之世界』第20巻第2,3号(実業之世界社, 1923.02,03)