デジタル版「実験論語処世談」(64) / 渋沢栄一

8. 政体の可否は時代による

せいたいのかひはじだいによる

(64)-8

仲弓為季氏宰。問政。子曰。先有司。赦小過。挙賢才。曰。焉知賢才而挙之。曰。挙爾所知。爾所不知。人其舎諸。【子路第十三】
(仲弓季氏の宰となり。政を問ふ。子曰く。有司を先きにし、小過を赦し、賢才を挙げよ。曰く。焉んぞ賢才を知り、之れを挙げん。曰く。爾が知る所を挙げよ、爾の知らざる所は人それこれを舎ん。)
 本章は政を為すに三要あることを説いたものである。仲弓は孔子十哲の一人で行ひの正しい人のやうである。仲弓は既に季氏の宰(支配人)となつて居つた。そして政治の要諦を問はれたのに対し、孔子は衆職を統ぶる宰たるものは、銭穀兵賦礼制等を分担する要職の官吏に職を行はしめればよい。そして悪をなすものは懲らさなければならぬけれども、過失は時としてあるものである。ましてそれが小過であつたならば之を咎めることをせぬと云ふやうな寛大がなければならぬ。又賢才あるものを進任擢用して職に在らしめると、政事改まつて民はその恵に浴することが出来ると、この三事を政治要務とした。然るに仲弓は更に人は多くして自分は一人である。どうして此の多き中から賢才を知つて挙げればよいかと又問はれた。すると孔子は、汝の知つて居る所の賢才を挙げよ、そうすれば、汝の知らない所の賢才は、人から推薦して来て決して捨てては置かないものである、と説いた。
 この政治の要務から見れば、君主専制政体であつて、今日の立憲政体、共和体とも違ふ。即ち君主は自分の意志によつて政治を自由に行ふことが出来るから、今日の議会政治などとは非常に違つて居る。之れが違つて居るからと云つて、それを批評することは出来ない。何となればこれは政治の仕方であるからである。如何に政体は立憲政制であると云つても、それを行ふものにして正しき人を得なければ、よい政治が行はれるものではない。結局する所政治の善悪は政体の如何によらない。君主政治でもその君主にして民衆に先んじて労し而も倦むことがないと云ふやうであつたら、君主政治必ずしも悪いと云ふことは出来ない。却つて立憲政治よりも善い政治が行はれることもあると思ふ。
 孔子は此処に於て君主政治の要務を説かれて居るが、若し孔子をして今日に在らしめば、矢張立憲政治を説かれたかもれない。然るに孔子を時勢に適しないと云つて非難をするのは、時勢の如何を知らぬへボ政治家の囈語である。
 今日の天文家は、昔の天文学を見て笑ふかも知れないが、その時代を知らぬからであつて、それを知つたならばそんなことが出来ない筈だ。太陽の上るのは地球が廻るからだと云ふことは、今日では何人でも知つて居ることであるが、昔はさうでなかつた。為めに今日でも猶地球が廻ると言はず太陽が上ると言つて居るし、さう云ふことも別に人は怪しまないではないか。賢君、賢相が上に居つて政治を行つたならば、今日の立憲政治などよりよい政治が行はれるかも知れない。即ち職制を決め、小過を許し、野に遺賢なからしむるやうにすれば、その政治は大いに見るべきものがあると思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(64) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.534-540
底本の記事タイトル:三五二 竜門雑誌 第四二一号 大正一二年六月 : 実験論語処世談(第六十二《(四)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第421号(竜門社, 1923.06)
初出誌:『実業之世界』第20巻第2,3号(実業之世界社, 1923.02,03)