デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
王孫賈問曰。与其媚於奥。寧媚於竈。何謂也。子曰。不然。獲罪於天無所祷也。【八佾第三】
(王孫賈問うて曰く、其奥に媚びんよりは、寧ろ其竈に媚びよとは何の謂ぞや。子曰く、然らず、罪を天に獲れば祷る所無し。)
昔夏の時代には鬼神の神体を奥に納めて置いて、竈を祭る慣習のあつたものである。この慣習が原因になつて、商人が或る家に出入でもしようとならば、主人よりも三太夫に取り入る方が捷径だぞといふ事を「其奥に媚びんよりは寧ろ竈に媚びよ」と下世話に称ふる諺を生じこの諺が孔夫子の時代に広く行はれて居つたものらしく思はれる。(王孫賈問うて曰く、其奥に媚びんよりは、寧ろ其竈に媚びよとは何の謂ぞや。子曰く、然らず、罪を天に獲れば祷る所無し。)
王孫賈は、衛の大夫を勤めた権臣であるが、孔夫子の衛に仕へんとして来るを見るや、「其奥に媚びんよりは寧ろ竈に媚びよとは何の謂ぞや」と夫子に問ひかけ、苟にも衛に仕へんとする志あるものならば君主たる霊公に取り入るよりは、権臣たる賈に賄賂でも贈る方が宜しからうぞとの意を婉曲にほのめかしたのである。之に対し孔夫子の答へられたものが茲に掲げた章句である。一説に拠れば、孔夫子の御答へになられた御趣旨は、「天」を「奥」と同意義に用ひ、君公を天に譬へて、仮令、衛の権臣たる賈の御機嫌に叶つても、君公に罪を獲るやうでは何とも致方が無くなるでは無いか、との意味であるとの事だが、これは余りに穿ち過ぎた解釈である。それよりは、仮令権臣に媚びて旨く取り入つても、之が為天命に反くやうな無理があつては、到底、再び世に起ち得られぬ人間になつてしまふぞ、と御答へになつたものと解釈する方が至当であらうかと思はれる。
人間が此の世の中に活きて働いてるのは天命である。草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある。この天命が即ち天の配剤となつて顕れ、同じ人間のうちにも、酒を売るものがあつたり、餅を売るものがあつたりするのである。天命には如何なる賢者聖人とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、尭と雖も我が子の丹朱をして帝位を継がしむることができず、舜と雖も亦太子の商均をして位に即かしむるわけには参らなかつたのである。これみな天命の然らしむる処で、人力の如何ともすべからざる処である。草木は如何しても草木で終らねばならぬもので、鳥獣に成らうとしても成り得られるものでない。鳥獣とても亦如何にならうとしたからとて、草木には成り得られぬものである。畢竟みな天命である。之によつて稽へて見ても、人間は天命に従つて行動せねばならぬものである事が頗る明かになる。
孔夫子は論語陽貨篇に於て「天何言哉。四時行焉。百物生焉。天何言哉。」(天何をか言はんや。四時行はれ百物生ず。天何をか言はんや)と仰られ、又孟子も万章章句上に於て「天不言。以行与事示之而已矣。」(天もの言はず、行と事を以て之に示すのみ)と曰はれて居る通り、人間が無理な真似をしたり不自然な行動をしたりなぞして罪を天に獲たからとて、天が別にモノを言つてその人に罰を加へるわけでも何でも無い。周囲の事情によつて、その人が苦痛を感ずるやうになるだけである。これが即ち天罰と申すものである。人間が如何に此の天罰より免れようとしても、決して免れ得べきものでは無い。自然に四時の季節が行はれ、天地万物の生育する如くに、天命は人の身の上に行はれてゆくものである。故に孔夫子も中庸の冒頭に於て「天命之謂性」(天の命之を性と謂ふ)と仰せられて居る。如何に人が神に祷つたから、仏に御頼み申したからとて、無理な真似をしたり不自然の行為をすれば、必ず因果応報はその人の身の上に廻り来るもので、到底之を逃げるわけにゆくもので無い。是に於てか、自然の大道を歩んで毫も無理な真似を致さず、内に省みて疚しからざる者にして始めて孔夫子の言の如く「天生徳於予。桓魋其如予何。」(天徳を予に生ず。桓魋(孔子を害せんとする悪人の名)其れ予を如何にせん)との自信を生じ、茲に真正の安心立命を得られることになるのである。孔夫子が論語子罕篇に於て「天未喪斯文也。匡人其如予何。」(天の未だ此の文を滅ぼさざるや、匡人其れ予を如何にせん)と仰せられ、如何に匡の人々が自分を陽虎と申す悪人に容貌が似て居るからとて、思ひ違ひの為め殺さうとしても、天に「斯の文」即ち聖人の道を滅ぼさうとの御意が無いうちには、決して我を殺し得らるるもので無いとの意を述べられたのも、畢竟、天命に安ずる真正の安心立命があつたからの事である。
天命は、人間が之を意識しても将た意識しなくつても四季が順当に行はれてゆくやうに、百事百物の間に行はれてゆくものたるを覚り、之に対するに恭、敬、信を以てせねばならぬものだ、と信じさへすれば、「人事を尽して天命を待つ」なる語のうちに含まるる真正の意義も始めて、完全に解し得らるるやうになるものかと思ふ。されば実際世に処して行く上に於て、如何に「天」を解してゆくべきものかといふ問題になれば、孔夫子の解せられて居つた程度に之を解して、人格ある霊的動物なりともせず、天地と社会との間に行はるる因果応報の理法を偶然の出来事なりともせず、之を天命として恭、敬、信の念を以てするのが、最も穏当の考へ方であらうかと思ふのである。
子曰。関雎楽而不淫。哀而不傷。【八佾第三】
(子曰く、関雎は楽んで淫れず、哀んで傷らず。)
茲に掲げた孔夫子の語のうちにある「関雎」の「関」は、「和ぎ鳴く声」を表した言葉で、「雎」は「雎鳩」即ちミサゴである。「関雎」は詩経の冒頭にある詩篇だが、文王と其后妃との御睦しき仲を、ミサゴと申す鳥の群が河の洲にあつて和楽する光景に比し之を謡つたもので、窈窕たる淑女も文王と申す君子を得られなかつたうちは、随分輾転反側するまでの苦悶をせられたが、さればとて哀んで心身を破るまでの迂を為さず、又文王と后妃とが御夫婦になられてから後にも、楽んで常軌を逸する如き痴に走らず、哀楽の中を得られて居るのを頌めた詩が、是れ実に此の「関雎」の一篇である。孔夫子はこの一篇の詩を引いて、人は哀むにも楽むにも総て極端に走つては相成らぬものであると、茲に掲げた一章によつて戒められたのである。(子曰く、関雎は楽んで淫れず、哀んで傷らず。)
総じて人間と申すものは、兎角何事に於ても極端に走り易い傾向のあるもので、楽む時にも調子に乗つて有頂天となる代り、哀しむ時にも亦前後を忘れて動々ともすれば昔なら腹を切るとか、昨今ならば首を縊るとか入水するとかいふまでの自暴自棄に陥り易いものである。一度駈け出した意馬心猿は容易に止められるもので無い。眼前に大きな溝の横はつて居るのに多少気が付いて居ながらも、なほ「やつてしまへ」と一気に乗り越さうとするのが実に人情の弱点で、楽んで淫せず哀んで傷らざる心情を絶たぬやうにすることは却々に六ケしい大事である。之を実行してゆかれる人が即ち君子と申上ぐべきもので、世間には斯る人が少いのである。
学者が動ともすれば学に流れて実際を軽んじ、実際家が又動ともすれば実際に流れて学を疎んずるに至るが如きも、みな是れ、楽んで淫し、哀んで傷るる亜流であると申さねばならぬ。学者が実際を軽んずるのは、学を愛するの余り其愛に溺るの致す処で、実際家が学を疎んずるのも、亦実際を愛するの余り其愛に溺るるの致す処である。人間は何につけ彼につけ溺れ易いもので、楽みに溺るる如く、哀みにも溺るるを常とする。哀楽の中庸を体して世渡りをする事は実に難中の難である。されば孔夫子も「好んで其悪を知り、疾んで其好きを知るは難し」と仰せられて居る。中庸を失つて学者が学に溺れ、実際家が実際に溺れてしまへば、仮令其人が無類の正直者であつたにしても、その人の曰ふ処行ふ処には知らず知らず嘘が多くなつて来て、好きものを悪しと謂ひ、悪しきものをも好しと謂ひ、好からざる事をも強ひて為すやうになる恐れがある。これが人生のハズミと申すものである。処世の上に最も戒むべきものは、ハズミに乗つて調子づかぬやうにする事である。一時成功の如く見えた人の、忽ち失敗するのは何れも皆なハズミに乗つて調子づくからである。
私は、青年子弟諸君に向つて人間は孔夫子の教へられたる如く、楽んで淫せず哀んで傷らず、人の悪を疾んでも猶ほ其の好きを知るほどの節度ある人物にならねばならぬものだと御勧めすると同時に、節度を守る弊に陥つて薄情となり、冷淡となり、残酷に流れるやうな事があつてはならぬと忠告したいのである。世の中と申すものは決して理智ばかりで渡れるものでは無い。そこに温かい人情がなければならぬものである。節度を守るに就ても矢張又中庸を得るのが大切である。節度を守る事も余り極端になつてしまへば、楽んで淫し哀んで傷れるのと大した差が無いことになる。ここが実際に臨み身を処するに当つて却々六ケしいところである。
この時にも、慶喜公におかせられては毫も哀まれたやうな模様なく取乱しの趣きなどは更々御見受け申し得なかつたのみか、眉一つさへ御動かしになつたでもなく、私が愚痴を申上げようとするのを御制めになり、「既往のことは何によらず話してくれるな。そんな話をされては困る。仏蘭西留学中に於ける民部の模様を聞かうと思つて遇つたのだから民部の話をしろ」との仰せであつたのである。私はその言葉を耳にするや「ハテ!しまつた。御謹慎中をも顧みず悪い事を申上げたものであつた」と気がつき、それきり愚痴話を止めてしまひ、民部公子が仏蘭西御留学中に於ける御模様を申上げて私は退出したのであつたが、節度の無い哀んで傷れる如き人ならば、私が愚痴を申上げようとでもすれば、意外の同情者でも得たかの如き気になつて、愚痴に相槌を打つやうになるものである。然るに泰然自若として、私の申上げようとした愚痴を制止せらたのは、今も尚感服して居る。
節度の何事にも大切なものである次第は、既に申述べた如くであるが、これは義を遂るに当つても大事なものである。如何に義を進め悪を却けねばならぬのが正しい道であるからとて、之に節度がなく、親が子の悪を暴き、子が親の悪を暴き、師弟長幼互に他の非を摘げるやうになつてしまへば、それは余りの極端である。故に孔夫子も「子は親の為に隠し、親は子の為に隠す。直き事其うちにあり」と仰せられて居る。ここに真正の正しい道があり、節度の美があるのである。
成事不説。遂事不諫。既往不咎。【八佾第三】
(成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず。)
ここに掲げた章句は魯の哀公が孔子の御弟子の宰予に対し、氏神の社殿には如何なる樹木を植ゑて然るべきものだらうか、と問はれた時に、宰予が哀公には季孫、叔孫、孟孫といふ三家と仲違になつて之を去らんとする意あるを察し、恰も「忠臣蔵」の加古川本蔵が松の枝を伐つて主君桃井若狭之助を諷諫せる如く、社殿に植うる樹木の種類に事寄せて、威を以て季孫、叔孫、孟孫の三家に臨み、彼等をして戦慓[慄]せしめたら可からうと諷しながら、哀公に御答へ申上げたる由を孔夫子が御聞知になつて宰予の不心得を戒められた教訓で、何事も既往に溯つて人を咎め立てするは宜しく無いと説かれたのが御趣意である。(成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず。)
孔夫子は、是までも屡々お話致せる如く、至つて執着心の薄い方で万事にアツサリし、ネチネチした処の決して無い御性情にあらせられ如何なる事に対しても亦如何なる人に対しても、常に淡然たる心情を持たせられた方である。既に出来てしまつた事は後から兎や斯う申した処で致方が無い。既に遂げられてしまつた事を、今更ら宜しく無いからとて諫めた処で格別効果のあるものではない、総て既往は咎めぬが可いぞよ、と仰せられたのは誠に能く孔夫子が万事に淡然たる特色を発揮した言である。
大体の上から謂へば、人の過失には種類が二つある。一つは無意識の過失で、一つは有意識の過失である。人の過失を責むると否とは、過失として外部に表れた結果よりも、まづ過失を醸すに至つた其人の心事を調べて、それから後に決すべきものである。事理や形勢に対する判断を過つた為に生じた過失であるとか、乃至は又俗に謂ふ出来心即ち一時の物我に覆はれて為た過失であるとかいふものは、敢て其人が其過失を為ようと初めから企謀んでした過失では無い。つまり、無意識の過失に対しては、単に将来を注意するぐらゐに止め、余り追求して責むべきもので無い。然し、世の中には又、悪い心事を懐いて居る者があつて、始めより過失を醸すのを心懸けて事に当り、種々の陣立を調へ、之によつて他人を陥れたり、或は他人に損害を加へたりなぞ致して、偏に我が利益のみを謀らんとするものがある。会社の設立なぞに際しても、斯る悪い心事を以て其創立を発起し、事業の失敗を予定の計画の如く心得る不所存者が無いでも無い。斯の如くにして醸さるる過失は、有意識の過失である。これは社会の利益幸福を増進する点から稽へても、亦当人をして改悛せしむる上から観ても、飽くまで責めねばならぬものである。
故井上侯は、世間に能く知られて居る通り、頗る悲観的傾向のあらせられた人で、事々物々を悲観すると共に、又、他人の過失をも責むるに急なる性質を帯びて居られたものである。されば、何事に対しても其及ぼす好影響より先に、まづ其の生ずる弊を稽へて之を指摘し、何人に対しても其長所を認むるよりは、まづ、其欠点を見るに力められたものである。随つて同侯には外間から観て、稍〻残酷に惟はれるやうな性格を有せられたものである。一般普通の人間ならば、教育が普及して国民に学問があるやうになつたと聞けば、悦ぶのが順当であるが、井上侯は決して之を悦ばれず、直に教育普及の弊を観、教育が普及して国民の知識程度を高める結果は、高等遊民を多くして国家の災害を醸すに至る恐れありと歎ぜられ、如何に学者が堂々たる立派な財政論を発表するのを視られても、「……あれで直ぐ金銭を貸して呉れと依頼に来るんだから、財政論も何もあつたもので無い」と罵倒せられたものである。私が、いろ〳〵合本組織の必要を唱道し、設立の会社などに奔走して居るのを視られても、「渋沢などが先棒になつて会社々々と騒ぐものだから、会社の濫興となり、其極財界を悲境に陥らしめ惹いて国家の財政を紊乱させるのだ」なぞと申されたもので、財政に関しても常に悲観説を懐かれたのである。
是に至ると、大隈伯は井上侯と全く其態度を異にし、これは又頗る楽観的で、何事に対しても其弊や害を看られず、その社会に及ぼす効益を挙げて悦ばるる傾向がある。
私は、井上侯の如く凡らゆる事物人物に対して悲観的態度を取るものでは無い。さればとて又、大隈伯の如く総てが楽観的だといふわけでも無い。事に対しては井上侯の如く悲観的態度を取り、人に対しては大隈伯の如く楽観的態度を取るのを、私は私の本領として居るのである。事に対しては飽くまで悲観的態度を取つて、念の上にも念を押し、注意の上にも注意を加へ、万失敗を招かぬやうに用心して置かぬと、兎角事と申すものは敗れ易いものである。事に対して楽観の態度を取れば、人は什麽しても調子づいて来て注意が疎略になり、失敗せずに済む事にまでも失敗して、他人へも迷惑をかけ、自分も亦損害を招かねばならぬやうになるものである。これが私の、事に対しては井上主義を把る所以である。
私は、自分の家族を維持するに足るくらゐの資産丈けはあるが、然し、限りなき慈善を致し得るまでの資産家では無い。さればとて五拾銭や壱円の施しを致したからとて、一家の維持が立ち行か無くなるといふわけでも無いから、五拾銭壱円の合力を頼みに来たのなら贈るが可からうと申付けたのである。それでも是等の人々が私に損害をかけようとて自邸の玄関を訪はれたものとは思はぬのである。
子曰。管仲之器小哉。或曰。管仲倹乎。曰。管氏有三帰。官事不摂焉得倹。然則管仲知礼乎。曰。邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君為両君之好有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知礼。孰不知礼。【八佾第三】
(子曰く、管仲の器は小なるかな。或人曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏は三帰を有して官事摂せず、焉ぞ倹なる事を得ん。然らば則ち管仲は礼を知るか。曰く、邦君樹して門を塞げば、管氏も亦樹して門を塞ぎ、邦君両君の好みを為すに反坫あれば、管氏も亦反坫あり。管氏にして礼を知らば、孰れか礼を知らざらん。)
茲に掲げた章句は、孔夫子が斉の桓公の宰相を勤めた管仲を批評せられたる語である。私は、これまでも屡〻申述べおける如く、論孟の学者では無い。随て私が論語の章句に就て御話する処も、古くから支那に行はれた慣習、典礼、歴史などを考証して、過り無き解釈を申上ぐるといふわけには参らず、ただ、自分が日常世に処するに当り、如何に論語に拠つて進退去就を決し来つたかを御話するまでに過ぎぬのである。されば、菲徳の私が、自分の到らぬ意見によつて、僣上にも聖人の御心を忖度する如き嫌ひが無いでもなく、甚だ以て恐れ入る次第であるが、茲に挙げた章句に於て、孔夫子は管仲を非難せられて居らるるかの如くに思はれる。然し同じ論語のうちでも、憲問篇に於ては、全然、此の反対で甚く管仲を称揚せられ、「微管仲。吾其被髪左衽矣。」(管仲無かりせば、吾れ其れ髪を被り衽を左にせん)とまで仰せられて居る。今この二個所の章句を相対比して稽へると、孔夫子は二枚舌を使はれたかの如くに凡俗の眼よりは見えぬでも無い。(子曰く、管仲の器は小なるかな。或人曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏は三帰を有して官事摂せず、焉ぞ倹なる事を得ん。然らば則ち管仲は礼を知るか。曰く、邦君樹して門を塞げば、管氏も亦樹して門を塞ぎ、邦君両君の好みを為すに反坫あれば、管氏も亦反坫あり。管氏にして礼を知らば、孰れか礼を知らざらん。)
管仲は支那の世界が戦国にならぬ前の春秋の時代のうちに現れた政治家であるが、当時既に封建の弊竇甚しく、群雄諸方に割拠し、統一が天下に無かつたものである。この時に当り斉の桓公に仕へた管仲に果して周の天下を再興し、天下一統の実を挙げようとの意志があつたか什麽か、其辺のところまで今俄に断ずるわけには参らぬが、兎に角桓公を輔けて之を諸侯に覇たらしめ、一致団結の力によつて、蒙古族等の支那侵入を防ぎ、依て以て支那の文化を維持するを得せしめた功は決して没すべきでは無い。孔夫子は管仲の斯の功を称揚せられたのである。然し、管仲の遺著たる「管子」なんかを読めば、そのうちには「衣食足つて礼節を知る」などの語があるによつて知り得らるる如く、管仲といふ人は経済のことにも相当心得のあつた人物らしく思はれる。それだけ又、何処かに悪る細かいコセコセした処もあつたので孔夫子は之を管仲の短所なりと看て取られ、「管仲の器は小なる哉」と仰せられたものであるらしい。
孔夫子が、管仲に種々の欠点があつて個人としては前に掲げた章句のうちにも説かれてあるが如く、人物が小さく一種の器たるに過ぎぬのみか、倹約なところも無く、礼を弁へざる事をも知り居られながら猶ほ称揚を惜まれなかつたのは、治国平天下の上に管仲の貢献したところが頗る偉大であつたからである。さればとて、此の故を以て個人として管仲が有つて居つた欠点を看過せられなかつたところに、孔夫子の公平なる心事がある。公平であつたから、ただ個人としての欠点を看過されなかつたといふ丈けで、管仲の治国平天下の為に尽くした功に対し、強ひて其欠点を責むるが如きことの無かつたものと思はれる。
既に御話し致せる如く、元治元年の二月、私が愈々意を決して一橋慶喜公に仕へた時には、所謂主従三世の誓ひを心に立て、飽くまで慶喜公と生死を共にする決心であつたのだが、御令弟の民部公子が仏蘭西に洋行せらるるやうになるや、多少私を用ふるに足ると思召されたものか、「今後の時勢は如何変るか逆睹し得るものでないから、渋沢の如き男をつけてやれば心配で無い」といふので、私が民部公子に御供を致すことになつたのである。然し、当時、私の身分は極低かつたので、御傅役といふわけに参らず、単に随従の名義で御供を致したのである。洋行中慶喜公は大政を奉還せられたのであるが、私は遥か仏国に於て之を聞知した時には、大政奉還は余儀ない事であるとしても既に伏見鳥羽の衝突があつた上は致方の無いこと故、そのまま引つ込んで恭順の意を表するなどは、余りに意気地が無さ過ぎると思ひ、此際瘠我慢をしても、踏ん張るところまでは踏ん張るべきであると存じその意味を文に認め、之を民部公子に書いて戴き、民部公子よりの御書簡として本国の慶喜公まで両三度申入れたのである。
その御手紙のうちには、公子が慶喜公と御対面の運びに至りかぬるを深く遺憾に思召さるる旨と、洋行中の事は詳細渋沢に御聞取りに相成り、御模様は又渋沢に御聞かせ下さるようにとの旨が書かれてあつたのだが、この御手紙を持参して、静岡の宝台院で私が慶喜公に拝謁した次第は、既に前々回に於て御話し置ける通りである。其の際私より民部公子の御返事は如何致し下さるものかと伺上げると、慶喜公は別に之に対して御答へなく、それから四日目に突然静岡藩庁より私に喚び出し状が来たのである。
何事かと思つて出頭に及ぶと、今日は御用召しであるから礼服の裃を着けねばならぬとの事であつたが、旅中とて素より裃の持合せが無かつたので、早速他より借受けて着用し、何が何やら一向に訳が解らなかつたが、命ぜらるるままに、勘定所へ出頭すると、静岡藩の勘定組頭を命ずるとの辞令を渡されたのである。私は慶喜公よりの御返事を頂戴して水戸に帰らうと思うて居る処に、突然の此の辞令であつたものだから、事の意外なるに驚き、勘定組頭の平岡準蔵と申す人は、かねて私と知合の間柄であつたので、同氏に面会し、民部公子への御返事は如何相成るものかと問合せて見ると、同氏は更に当時中老と申した老中に就き問合せたる上、「水戸への御返事は別に手紙を以て差立てる」との事であつたのである。
依て私は直に大久保の宅に出かけて行くと、実は前将軍から、渋沢は水戸に帰さず静岡に留め置かるるやうに取計へよとの御内沙汰であつた為めに勘定組頭に任ずることに致したもので、前将軍は深く渋沢の身を御案じになり、若し民部公子への返事を持たして渋沢を水戸に帰せば、かね〴〵渋沢に信頼せらるる公子のこととて必ずや渋沢を重く用ひるに違ひない、然るに水戸は承知の如く朋党の盛んな藩であるから渋沢の身が危くなる、之を前将軍が御心配になつて静岡に留め置かるるやうにとの御内沙汰があつたのであるとの事に、私は深く慶喜公の私を労はり下さるるの篤きに感激したのである。この事は、其後慶喜公に度々拝謁し得らるるやうになってから申上げて、御礼を述べた次第であるが、公は私の如き微賤の者に対しても、これほどまでに行届いた御所置を取られたもので、誰に対しても不公平の御所置なぞは決して無かつたのである。青年子弟諸君は能く此辺の消息を呑み込まれ、孔夫子が管仲に対せるが如くに他人を批判し、慶喜公の如く公平敦厚の心事を以て凡ての人に対すべきものである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)