デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

3. 罪を天に獲るとは何ぞ

つみをてんにうるとはなんぞ

(12)-3

 されば、孔夫子が曰はれた「罪を天に獲る」とは、「無理な真似を為て不自然の行動に出づる」といふ意味であらうかと思ふ。無理な真似をしたり不自然な行動をすれば、必ず悪い結果を身の上に受けねばならぬに極つて居る。その時になつて、その尻を何処かへ持つてゆかうとしたところで、元来が無理や不自然な事を為て自ら招いた応報であるから、何処へも持つて行き処がないといふ事になる。これが即ち「祷る所無し」と云ふ意味である。
 孔夫子は論語陽貨篇に於て「天何言哉。四時行焉。百物生焉。天何言哉。」(天何をか言はんや。四時行はれ百物生ず。天何をか言はんや)と仰られ、又孟子も万章章句上に於て「天不言。以行与事示之而已矣。」(天もの言はず、行と事を以て之に示すのみ)と曰はれて居る通り、人間が無理な真似をしたり不自然な行動をしたりなぞして罪を天に獲たからとて、天が別にモノを言つてその人に罰を加へるわけでも何でも無い。周囲の事情によつて、その人が苦痛を感ずるやうになるだけである。これが即ち天罰と申すものである。人間が如何に此の天罰より免れようとしても、決して免れ得べきものでは無い。自然に四時の季節が行はれ、天地万物の生育する如くに、天命は人の身の上に行はれてゆくものである。故に孔夫子も中庸の冒頭に於て「天命之謂性」(天の命之を性と謂ふ)と仰せられて居る。如何に人が神に祷つたから、仏に御頼み申したからとて、無理な真似をしたり不自然の行為をすれば、必ず因果応報はその人の身の上に廻り来るもので、到底之を逃げるわけにゆくもので無い。是に於てか、自然の大道を歩んで毫も無理な真似を致さず、内に省みて疚しからざる者にして始めて孔夫子の言の如く「天生徳於予。桓魋其如予何。」(天徳を予に生ず。桓魋(孔子を害せんとする悪人の名)其れ予を如何にせん)との自信を生じ、茲に真正の安心立命を得られることになるのである。孔夫子が論語子罕篇に於て「天未喪斯文也。匡人其如予何。」(天の未だ此の文を滅ぼさざるや、匡人其れ予を如何にせん)と仰せられ、如何に匡の人々が自分を陽虎と申す悪人に容貌が似て居るからとて、思ひ違ひの為め殺さうとしても、天に「斯の文」即ち聖人の道を滅ぼさうとの御意が無いうちには、決して我を殺し得らるるもので無いとの意を述べられたのも、畢竟、天命に安ずる真正の安心立命があつたからの事である。

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デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)