デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

7. 私には到らぬ処がある

わたしにはいたらぬところがある

(12)-7

 私なども、斯る極端に走る事の無いやうにと、及ばずながら常に心懸けて居るものではあるが、薄徳の悲しさ、孔夫子の遺訓を実行の上に顕し得ず、未だ〳〵到らぬ処が多く、楽んで淫せず、哀んで傷らずといふまでの境涯に入り切れず、何方かと申せば楽んで淫し哀んで傷れる方の側に属する者である。これは、自分ながら青年子弟諸君に対しても甚だお恥かしく、面目なく存ずる次第であるが、苟も世に処して過誤の無い道を歩んでゆかうとの志ある士ならば、如何に人を悪んでも其好きを知り、如何に人を好んでも其悪きを知るやうになつてる丈けの用意が無ければならぬものである。然し、これは言ふべくして却々実行の六ケしいことで、下世話にも申す如く、好いた人のものなれば痘痕でも兎角笑靨に見え勝ちになる。人は愛に溺れてならぬやうに、憎悪にも溺れてはならぬものである。
 学者が動ともすれば学に流れて実際を軽んじ、実際家が又動ともすれば実際に流れて学を疎んずるに至るが如きも、みな是れ、楽んで淫し、哀んで傷るる亜流であると申さねばならぬ。学者が実際を軽んずるのは、学を愛するの余り其愛に溺るの致す処で、実際家が学を疎んずるのも、亦実際を愛するの余り其愛に溺るるの致す処である。人間は何につけ彼につけ溺れ易いもので、楽みに溺るる如く、哀みにも溺るるを常とする。哀楽の中庸を体して世渡りをする事は実に難中の難である。されば孔夫子も「好んで其悪を知り、疾んで其好きを知るは難し」と仰せられて居る。中庸を失つて学者が学に溺れ、実際家が実際に溺れてしまへば、仮令其人が無類の正直者であつたにしても、その人の曰ふ処行ふ処には知らず知らず嘘が多くなつて来て、好きものを悪しと謂ひ、悪しきものをも好しと謂ひ、好からざる事をも強ひて為すやうになる恐れがある。これが人生のハズミと申すものである。処世の上に最も戒むべきものは、ハズミに乗つて調子づかぬやうにする事である。一時成功の如く見えた人の、忽ち失敗するのは何れも皆なハズミに乗つて調子づくからである。

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渋沢栄一, 到らぬ
デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)