デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

11. 孔子は何事にも淡然

こうしはなにごとにもたんぜん

(12)-11

成事不説。遂事不諫。既往不咎。【八佾第三】
(成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず。)
 ここに掲げた章句は魯の哀公が孔子の御弟子の宰予に対し、氏神の社殿には如何なる樹木を植ゑて然るべきものだらうか、と問はれた時に、宰予が哀公には季孫、叔孫、孟孫といふ三家と仲違になつて之を去らんとする意あるを察し、恰も「忠臣蔵」の加古川本蔵が松の枝を伐つて主君桃井若狭之助を諷諫せる如く、社殿に植うる樹木の種類に事寄せて、威を以て季孫、叔孫、孟孫の三家に臨み、彼等をして戦慓[慄]せしめたら可からうと諷しながら、哀公に御答へ申上げたる由を孔夫子が御聞知になつて宰予の不心得を戒められた教訓で、何事も既往に溯つて人を咎め立てするは宜しく無いと説かれたのが御趣意である。
 孔夫子は、是までも屡々お話致せる如く、至つて執着心の薄い方で万事にアツサリし、ネチネチした処の決して無い御性情にあらせられ如何なる事に対しても亦如何なる人に対しても、常に淡然たる心情を持たせられた方である。既に出来てしまつた事は後から兎や斯う申した処で致方が無い。既に遂げられてしまつた事を、今更ら宜しく無いからとて諫めた処で格別効果のあるものではない、総て既往は咎めぬが可いぞよ、と仰せられたのは誠に能く孔夫子が万事に淡然たる特色を発揮した言である。

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デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)