デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

22. 静岡藩勘定組頭の辞令

しずおかはんかんじょうくみがしらのじれい

(12)-22

 斯る心情で帰朝したのであるから、帰朝した際には血気盛んな二十九歳の頃でもあり、旁々或は函館に走つて榎本の軍に投じようかとの考へさへあつたものである。帰朝する時には、最初民部公子と御一緒に洋行した者も、皆、其前に帰国してしまひ、ただ私一人だけが残り公子に御供をして参つたのであるが、帰朝して見ると、民部公子は水戸家を継がせらるることになり、公子は其まま水戸に赴かれねばならず、静岡に御謹慎中の慶喜公とは御兄弟の御対面も叶はぬ次第に取運ばれたので、私が公子の御手紙を持つて静岡に参り、慶喜公に拝謁し公子御洋行中の一部始終を報告することになつたのである。
 その御手紙のうちには、公子が慶喜公と御対面の運びに至りかぬるを深く遺憾に思召さるる旨と、洋行中の事は詳細渋沢に御聞取りに相成り、御模様は又渋沢に御聞かせ下さるようにとの旨が書かれてあつたのだが、この御手紙を持参して、静岡の宝台院で私が慶喜公に拝謁した次第は、既に前々回に於て御話し置ける通りである。其の際私より民部公子の御返事は如何致し下さるものかと伺上げると、慶喜公は別に之に対して御答へなく、それから四日目に突然静岡藩庁より私に喚び出し状が来たのである。
 何事かと思つて出頭に及ぶと、今日は御用召しであるから礼服の裃を着けねばならぬとの事であつたが、旅中とて素より裃の持合せが無かつたので、早速他より借受けて着用し、何が何やら一向に訳が解らなかつたが、命ぜらるるままに、勘定所へ出頭すると、静岡藩の勘定組頭を命ずるとの辞令を渡されたのである。私は慶喜公よりの御返事を頂戴して水戸に帰らうと思うて居る処に、突然の此の辞令であつたものだから、事の意外なるに驚き、勘定組頭の平岡準蔵と申す人は、かねて私と知合の間柄であつたので、同氏に面会し、民部公子への御返事は如何相成るものかと問合せて見ると、同氏は更に当時中老と申した老中に就き問合せたる上、「水戸への御返事は別に手紙を以て差立てる」との事であつたのである。

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キーワード
静岡藩, 勘定組頭, 辞令
デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)