デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

6. 人は兎角極端に走る

ひとはとかくきょくたんにはしる

(12)-6

子曰。関雎楽而不淫。哀而不傷。【八佾第三】
(子曰く、関雎は楽んで淫れず、哀んで傷らず。)
 茲に掲げた孔夫子の語のうちにある「関雎」の「関」は、「和ぎ鳴く声」を表した言葉で、「雎」は「雎鳩」即ちミサゴである。「関雎」は詩経の冒頭にある詩篇だが、文王と其后妃との御睦しき仲を、ミサゴと申す鳥の群が河の洲にあつて和楽する光景に比し之を謡つたもので、窈窕たる淑女も文王と申す君子を得られなかつたうちは、随分輾転反側するまでの苦悶をせられたが、さればとて哀んで心身を破るまでの迂を為さず、又文王と后妃とが御夫婦になられてから後にも、楽んで常軌を逸する如き痴に走らず、哀楽の中を得られて居るのを頌めた詩が、是れ実に此の「関雎」の一篇である。孔夫子はこの一篇の詩を引いて、人は哀むにも楽むにも総て極端に走つては相成らぬものであると、茲に掲げた一章によつて戒められたのである。
 総じて人間と申すものは、兎角何事に於ても極端に走り易い傾向のあるもので、楽む時にも調子に乗つて有頂天となる代り、哀しむ時にも亦前後を忘れて動々ともすれば昔なら腹を切るとか、昨今ならば首を縊るとか入水するとかいふまでの自暴自棄に陥り易いものである。一度駈け出した意馬心猿は容易に止められるもので無い。眼前に大きな溝の横はつて居るのに多少気が付いて居ながらも、なほ「やつてしまへ」と一気に乗り越さうとするのが実に人情の弱点で、楽んで淫せず哀んで傷らざる心情を絶たぬやうにすることは却々に六ケしい大事である。之を実行してゆかれる人が即ち君子と申上ぐべきもので、世間には斯る人が少いのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)