デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

21. 慶喜公は公平の御性

けいきこうはこうへいのおせい

(12)-21

 他人を批評するに当り、孔夫子が管仲に対せられたる如き心事を以てし、毫も偏るところ無く公平の態度に出で、欠点は欠点として指摘し、長所は長所として之を称揚する人は却々世間にあるもので無い。節度を守つて中庸を得たる人は容易に見当り難いもので、矢張、其事あるも其人に接せざるの類である。大抵の人は、自分の好む人物に対すれば、仮令、之に欠点あるを知つても責めず、少くとも之を寛るし過ぎる傾きを有するものである。然し孔夫子には斯る傾きが無かつたのである。徳川慶喜公が節度のあつた御仁であらせられたことは、既に前々回の談話のうちにも、申述べ置ける通りであるが、他人に対しても常に公平の態度を持たれ、人の欠点を知らるると共に、又能く其長所をも知られたものである。
 既に御話し致せる如く、元治元年の二月、私が愈々意を決して一橋慶喜公に仕へた時には、所謂主従三世の誓ひを心に立て、飽くまで慶喜公と生死を共にする決心であつたのだが、御令弟の民部公子が仏蘭西に洋行せらるるやうになるや、多少私を用ふるに足ると思召されたものか、「今後の時勢は如何変るか逆睹し得るものでないから、渋沢の如き男をつけてやれば心配で無い」といふので、私が民部公子に御供を致すことになつたのである。然し、当時、私の身分は極低かつたので、御傅役といふわけに参らず、単に随従の名義で御供を致したのである。洋行中慶喜公は大政を奉還せられたのであるが、私は遥か仏国に於て之を聞知した時には、大政奉還は余儀ない事であるとしても既に伏見鳥羽の衝突があつた上は致方の無いこと故、そのまま引つ込んで恭順の意を表するなどは、余りに意気地が無さ過ぎると思ひ、此際瘠我慢をしても、踏ん張るところまでは踏ん張るべきであると存じその意味を文に認め、之を民部公子に書いて戴き、民部公子よりの御書簡として本国の慶喜公まで両三度申入れたのである。

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キーワード
徳川慶喜, 公平
デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)