デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

1. 衛の権臣賄賂を誘ふ

えいのけんしんわいろをさそう

(12)-1

王孫賈問曰。与其媚於奥。寧媚於竈。何謂也。子曰。不然。獲罪於天無所祷也。【八佾第三】
(王孫賈問うて曰く、其奥に媚びんよりは、寧ろ其竈に媚びよとは何の謂ぞや。子曰く、然らず、罪を天に獲れば祷る所無し。)
 昔夏の時代には鬼神の神体を奥に納めて置いて、竈を祭る慣習のあつたものである。この慣習が原因になつて、商人が或る家に出入でもしようとならば、主人よりも三太夫に取り入る方が捷径だぞといふ事を「其奥に媚びんよりは寧ろ竈に媚びよ」と下世話に称ふる諺を生じこの諺が孔夫子の時代に広く行はれて居つたものらしく思はれる。
 王孫賈は、衛の大夫を勤めた権臣であるが、孔夫子の衛に仕へんとして来るを見るや、「其奥に媚びんよりは寧ろ竈に媚びよとは何の謂ぞや」と夫子に問ひかけ、苟にも衛に仕へんとする志あるものならば君主たる霊公に取り入るよりは、権臣たる賈に賄賂でも贈る方が宜しからうぞとの意を婉曲にほのめかしたのである。之に対し孔夫子の答へられたものが茲に掲げた章句である。一説に拠れば、孔夫子の御答へになられた御趣旨は、「天」を「奥」と同意義に用ひ、君公を天に譬へて、仮令、衛の権臣たる賈の御機嫌に叶つても、君公に罪を獲るやうでは何とも致方が無くなるでは無いか、との意味であるとの事だが、これは余りに穿ち過ぎた解釈である。それよりは、仮令権臣に媚びて旨く取り入つても、之が為天命に反くやうな無理があつては、到底、再び世に起ち得られぬ人間になつてしまふぞ、と御答へになつたものと解釈する方が至当であらうかと思はれる。

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デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)