10. 泣いて頭が上らなかつた
ないてあたまがあがらなかった
(12)-10
この時にも、慶喜公におかせられては毫も哀まれたやうな模様なく取乱しの趣きなどは更々御見受け申し得なかつたのみか、眉一つさへ御動かしになつたでもなく、私が愚痴を申上げようとするのを御制めになり、「既往のことは何によらず話してくれるな。そんな話をされては困る。仏蘭西留学中に於ける民部の模様を聞かうと思つて遇つたのだから民部の話をしろ」との仰せであつたのである。私はその言葉を耳にするや「ハテ!しまつた。御謹慎中をも顧みず悪い事を申上げたものであつた」と気がつき、それきり愚痴話を止めてしまひ、民部公子が仏蘭西御留学中に於ける御模様を申上げて私は退出したのであつたが、節度の無い哀んで傷れる如き人ならば、私が愚痴を申上げようとでもすれば、意外の同情者でも得たかの如き気になつて、愚痴に相槌を打つやうになるものである。然るに泰然自若として、私の申上げようとした愚痴を制止せらたのは、今も尚感服して居る。
節度の何事にも大切なものである次第は、既に申述べた如くであるが、これは義を遂るに当つても大事なものである。如何に義を進め悪を却けねばならぬのが正しい道であるからとて、之に節度がなく、親が子の悪を暴き、子が親の悪を暴き、師弟長幼互に他の非を摘げるやうになつてしまへば、それは余りの極端である。故に孔夫子も「子は親の為に隠し、親は子の為に隠す。直き事其うちにあり」と仰せられて居る。ここに真正の正しい道があり、節度の美があるのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)