デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

13. 悲観的の人は残酷

ひかんてきのひとはざんこく

(12)-13

 過失に二つの種類があるやうに、他人の過失に対しても之を責むるに酷なる人と、之を余り責めずに、寛に過ごす人との二種類がある。何によつて、斯く他人の過失に対して酷なる人と寛なる人との別を生ずるやといふに、これは主として性情の問題である。その人の性情如何によつて或は酷となり、或は寛となるもので、是れ猶ほ人の性情の差によつて、事物を楽観する人と、悲観する人との別を生ずるのと同じである。概して言へば、悲観的傾向の人は他人の過失を責むるに酷なるもので、楽観的傾向の人は総体が寛で、余り他人の過失なぞを責めぬのである。
 故井上侯は、世間に能く知られて居る通り、頗る悲観的傾向のあらせられた人で、事々物々を悲観すると共に、又、他人の過失をも責むるに急なる性質を帯びて居られたものである。されば、何事に対しても其及ぼす好影響より先に、まづ其の生ずる弊を稽へて之を指摘し、何人に対しても其長所を認むるよりは、まづ、其欠点を見るに力められたものである。随つて同侯には外間から観て、稍〻残酷に惟はれるやうな性格を有せられたものである。一般普通の人間ならば、教育が普及して国民に学問があるやうになつたと聞けば、悦ぶのが順当であるが、井上侯は決して之を悦ばれず、直に教育普及の弊を観、教育が普及して国民の知識程度を高める結果は、高等遊民を多くして国家の災害を醸すに至る恐れありと歎ぜられ、如何に学者が堂々たる立派な財政論を発表するのを視られても、「……あれで直ぐ金銭を貸して呉れと依頼に来るんだから、財政論も何もあつたもので無い」と罵倒せられたものである。私が、いろ〳〵合本組織の必要を唱道し、設立の会社などに奔走して居るのを視られても、「渋沢などが先棒になつて会社々々と騒ぐものだから、会社の濫興となり、其極財界を悲境に陥らしめ惹いて国家の財政を紊乱させるのだ」なぞと申されたもので、財政に関しても常に悲観説を懐かれたのである。

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キーワード
悲観, , 残酷
デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)