デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

20. 孔夫子の道徳は国家的

こうふうしのどうとくはこっかてき

(12)-20

 孔夫子の説かれたところの道は、之まで話したうちにも申述べある如く、又、朱子が論語の冒頭に添へた序説にある伝記によつても窺ひ得らるる如く、之を博く天下に行はんとしたもので、一個人の私徳を全うするのが趣意では無く、博く民に施して能く衆を済はんとせられたものであるかの如くに想はれるのである。されば、論語雍也篇に於て子貢が孔夫子に向ひ「如有博施於民。而能済衆何如。可謂仁乎」(若し博く民に施して能く衆を救ふあらば如何。仁と謂ふべき乎)と問はれると「何事於仁。必也聖乎。尭舜其猶病諸。夫仁者己欲立而立人。己欲達而達人」(何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か、尭舜も其れ尚ほ之を病めり。夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す)と御答へになつたほどで、真正の仁は自分の徳を立てんとするよりも、社会の徳を立て、自分が向上進歩するよりも社会を向上進歩させる処にあるものだといふのが、孔夫子の御趣意であつたに相違ないのである。是に於てか、公冶長篇に於て孔夫子は「道不行乗桴浮于海」(道行はれずんば、筏に乗りて海に浮ばん)と仰せられて居る。若し、孔夫子の説かれた道が、単に一身の徳を立てて一身を潔くせんとするにあるものならば、道が行はれぬからとて強ひて筏に乗つて海に遁れ、世を棄つる必要は無いのであるが、孔夫子の道は、素と一身を修むるよりも治国平天下を目的とするもので、近頃の言葉を以て謂へば「国家的」であつたのである。
 孔夫子が、管仲に種々の欠点があつて個人としては前に掲げた章句のうちにも説かれてあるが如く、人物が小さく一種の器たるに過ぎぬのみか、倹約なところも無く、礼を弁へざる事をも知り居られながら猶ほ称揚を惜まれなかつたのは、治国平天下の上に管仲の貢献したところが頗る偉大であつたからである。さればとて、此の故を以て個人として管仲が有つて居つた欠点を看過せられなかつたところに、孔夫子の公平なる心事がある。公平であつたから、ただ個人としての欠点を看過されなかつたといふ丈けで、管仲の治国平天下の為に尽くした功に対し、強ひて其欠点を責むるが如きことの無かつたものと思はれる。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)