デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

5. 天命は天の知らざる所

てんめいはてんのしらざるところ

(12)-5

 此れが天命であるとか彼れが天命であるとかいふのは、畢竟、人間が夫々自分の勝手に決めることであつて、「天」の毫も関知するところでは無いのである。故に人間が天命を畏れて人力の如何ともする能はざる或る大なる力の存在を認め、人力を尽しさへすれば無理な事でも不自然な事でも何も必ず貫徹るものと思はず、恭、敬、信を以て天に対し、明治天皇の教育勅語のうちに所謂古今に通じて謬らず、中外に施して悖らぬ坦々として長安に通ずる大道をのみ歩み、人力に勝ち誇つて無理したり、不自然の行為をしたりするのを慎むといふ事は、誠に結構の至りであるが、「天」或は「神」或は「仏」を人格人体あり、感情に左右せらるるものであるかの如く解釈するのは甚だ間違つた観念であらうかと思ふのである。
 天命は、人間が之を意識しても将た意識しなくつても四季が順当に行はれてゆくやうに、百事百物の間に行はれてゆくものたるを覚り、之に対するに恭、敬、信を以てせねばならぬものだ、と信じさへすれば、「人事を尽して天命を待つ」なる語のうちに含まるる真正の意義も始めて、完全に解し得らるるやうになるものかと思ふ。されば実際世に処して行く上に於て、如何に「天」を解してゆくべきものかといふ問題になれば、孔夫子の解せられて居つた程度に之を解して、人格ある霊的動物なりともせず、天地と社会との間に行はるる因果応報の理法を偶然の出来事なりともせず、之を天命として恭、敬、信の念を以てするのが、最も穏当の考へ方であらうかと思ふのである。

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キーワード
天命, , , 知らず
デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)