デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

2. 天とは果して何ぞや

てんとははたしてなんぞや

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 論語の中に「天」の文字が屡〻散見せられる。又孔夫子の「天」に就て談られた個所も決して少くない。これは既に談話したうちに私も詳しく申述べ置いた処であるが、さて孔夫子が「罪を天に獲れば祷る所無し」と曰はれた言葉のうちにある「天」とは、果して何であらうか。私は、「天」とは「天命」の意味で、孔夫子も亦この意味に於て「天」なる語を用ひられたものと信ずるのである。
 人間が此の世の中に活きて働いてるのは天命である。草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある。この天命が即ち天の配剤となつて顕れ、同じ人間のうちにも、酒を売るものがあつたり、餅を売るものがあつたりするのである。天命には如何なる賢者聖人とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、尭と雖も我が子の丹朱をして帝位を継がしむることができず、舜と雖も亦太子の商均をして位に即かしむるわけには参らなかつたのである。これみな天命の然らしむる処で、人力の如何ともすべからざる処である。草木は如何しても草木で終らねばならぬもので、鳥獣に成らうとしても成り得られるものでない。鳥獣とても亦如何にならうとしたからとて、草木には成り得られぬものである。畢竟みな天命である。之によつて稽へて見ても、人間は天命に従つて行動せねばならぬものである事が頗る明かになる。

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デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)