デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

12. 人の過失に二種類あり

ひとのかしつににしゅるいあり

(12)-12

 如何にも孔夫子の遺訓の如く、過ぎ去つた事に飽くまで執着し、之を永遠までも問題にして騒ぐのは実に以て愚の極で、死んだ子の齢は如何に算へても蘇生るものでもなければ、又、覆水は決して盆に還へるものでも無い。人は宜しく過去に憧憬せず、将来を望み、現在に努力すべきである。これは青年子弟諸君に於ても、常に心に留めて戴きたいことである。然し、人の過失は如何なる種類のものでも、総て之を寛大に看過し、之を責めずして可なるかといふに、決して爾うでない。或る種類の過失は社会の為めにも亦当人の為めにも之を責めるやうに致さねばならぬのである。
 大体の上から謂へば、人の過失には種類が二つある。一つは無意識の過失で、一つは有意識の過失である。人の過失を責むると否とは、過失として外部に表れた結果よりも、まづ過失を醸すに至つた其人の心事を調べて、それから後に決すべきものである。事理や形勢に対する判断を過つた為に生じた過失であるとか、乃至は又俗に謂ふ出来心即ち一時の物我に覆はれて為た過失であるとかいふものは、敢て其人が其過失を為ようと初めから企謀んでした過失では無い。つまり、無意識の過失に対しては、単に将来を注意するぐらゐに止め、余り追求して責むべきもので無い。然し、世の中には又、悪い心事を懐いて居る者があつて、始めより過失を醸すのを心懸けて事に当り、種々の陣立を調へ、之によつて他人を陥れたり、或は他人に損害を加へたりなぞ致して、偏に我が利益のみを謀らんとするものがある。会社の設立なぞに際しても、斯る悪い心事を以て其創立を発起し、事業の失敗を予定の計画の如く心得る不所存者が無いでも無い。斯の如くにして醸さるる過失は、有意識の過失である。これは社会の利益幸福を増進する点から稽へても、亦当人をして改悛せしむる上から観ても、飽くまで責めねばならぬものである。

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キーワード
, 過失, 二種類
デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)