デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一

9. 慶喜公は即ち其人耶

けいきこうはすなわちそのひとか

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 さて、斯の如く楽んで淫せず哀んで傷らず、能く節度を守つて而も薄情冷淡にもならず、残酷ともならざる敦厚の資性を具へた人が、果して近頃の社会に誰かあるだらうかと見廻はすに、私が寡聞の致すところでもあらうが、却々容易に見当らぬのである。所謂其事あるも其人に接せざるの類で、私も今日までに斯る人に接した事が無いと申上げて然るべきほどのものである。然し、徳川慶喜公のみは、斯る御仁であらせられたと申上げても過言ではなからうと存ずるのである。慶喜公が斯る御仁の如くに私より御見受け申されたのは、同公は御平素より作法の至つて正しい方で、御節度のあらせられた御仁であつた為め、斯く私に見えたものかも知れぬが、私が親しく慶喜公に接して、如何にも哀んで傷らずとは、公の如き御仁を指したものであらうと思つた場合がある。私が仏蘭西に洋行する前、慶喜公へ御目にかかつた時には徳川十五代の将軍として拝謁したのであつたが、それから二年目に帰朝して明治元年の暮、静岡で御目にかかつた時には政権を返上せられて、同地の宝台院と申す小さな寺院に謹慎の意を表する為め、御引籠中であつたのである。謹慎中のこと故、誰にも面会にならぬのを原則とせられて居つたのだが、私が水戸の民部公子の随員として洋行し、帰つて来たのでもあり、且つ私は小身者の事であるから、御引見になつても天朝に対し差支が無からうとの事で、拝謁を賜はるに至つたのである。愈よ「拝謁を賜はる」との御沙汰があつたので、私は宝台院に罷出たのであるが、私の通されたのは六畳敷ばかりの極狭苦しい醜い薄暗い畳敷きの小さな室であつたのである。その畳といふのが又、一本葦《ぽんとうしん》の至極粗末なもので、その室に比べると、私の王子の自邸の玄関の方が遥に立派であるどころか、その室は私の王子の自邸の女中部屋にも猶ほ劣るほどの穢いものであつたのである。然しそれが慶喜公の私に拝謁を賜はる応接間であつたのである。

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徳川慶喜,
デジタル版「実験論語処世談」(12) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.32-45
底本の記事タイトル:二〇九 竜門雑誌 第三三六号 大正五年五月 : 実験論語処世談(一二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)
初出誌:『実業之世界』第13巻第2-5号(実業之世界社, 1916.01.15,02.01,02.15,03.01)