デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88

 伊藤仁斎は、当時徳川の天下を風靡した朱子学に反対の気勢を掲げ自ら孔孟の意を体せるものなりと称して、所謂古学を唱へたが、仁斎は遂に幕府によつて用ひられなかつたのである。然しこれは恰度政権に志を得ぬ政友会が、昨今九州あたりで盛んに大隈内閣の非を攻撃し廻るやうなもので、仁斎が幕府に用ひられなかつたといふ事が朱子学を攻撃した根本らしい。若し、仁斎も幕府に用ひられて居りさへすればあれほどまでに朱子学の攻撃をしなかつたものであるやも知れぬ。兎に角、仁斎の攻撃などには毫も影響せられず、朱子学の勢力は徳川十五代の天下を風靡し、仁義道徳は士大夫が政道を施くに必要なるもので、算盤を握つて商売をする素町人や、鍬を取つて田畑を耕す土百姓には、仁義道徳など全く不用のものであるかの如くに見られ、これが徳川時代より明治初年にかけての大勢であつたのである。
 然し私は商人にも猶且、信念が無ければ駄目なものであると稽へたので、算盤の基礎を論語の上に置くことにしたのであるが、この事は私が明治六年官途を辞して民間に下り、実業に従事せんとするの意を決した際に、当時私が居住して居つた神田小川町の宅を訪はれ、意を翻すようにと忠告された故大審院長玉乃世履氏に断言した所である。爾来四十有余年、私は毫も斯の信念に動揺を受けず、恰もマホメツトが片手に剣、片手に経文を握つて世界に臨んだ如くに、片手に論語、片手に算盤を握つて今日に至つたのである。斯る次第であるから、私には六ケしく言へば経済道徳説とでも称するやうなものがあるのである。この経済道徳説を論語算盤説とも私は称して居る。
 私が東京瓦斯会社に推薦した方で、当今は橋本圭二郎氏の社長たる宝田石油会社に専務取締役を勤めて居られる福島甲子三氏は越後の人であるが、却々の敏腕家であると同時に、論語趣味の人である。実業の根柢には仁義道徳が無ければならぬものである事を、深く信じて居られる。それやこれやの関係から、私が明治四十二年に古稀七十の賀の祝ひを致した際、同氏は私に二巻の書画帖を祝つて贈り下されたのである。その書画帖には当代に名ある方々が色紙に御書き下された書画を纏めたもので、その筆者のうちには、既に故人になられた御方さへ四五人ある。その故人になられた御方の中には、徳川慶喜公も這入つて居られるが、慶喜公は斯の書画帖の為に題辞を御書き下されたのである。
 この書画帖の中に、先般故人になられた有名な洋画家の小山正太郎氏が、銀泥の色紙に画かれた絵が一枚這入つて居る。その図取が実に面白いもので、朱鞘の刀とシルクハツトと算盤と論語との四つを旨く配合して描いてあるのである。朱鞘の刀は、私が曾つて撃剣なども稽古したりなどして武士道の心得あることを表し、シルクハツトは私が紳士の体面を重んじて世に立つ心あるを表したものらしく思はれるが論語と算盤とは、私が商売上の基礎を論語の上に置くのを以て信念として居る事を表はして下されたものである。この書には猶ほ
「論語を礎として商事を営み、算盤を執つて士道を説く、非常の人[、]非常の事、非常の功」
なる句が書き加へられてある。
 私は斯の小山氏の御画き下された図を拝見し、非常に面白く感じたのでその後、当時の東宮侍講であらせられた三島中洲先生が自宅を御訪ね下された時に之を御覧に入れると、同先生も曾て「義利合一説」なるものを御起草になつたことがあるといふので、小山氏の絵を見られてから、特に私の為に「論語算盤説」の一文を御起草になり、態々私の自宅まで御持ちになつて私に御贈り下されたのである。
 私は三島先生の斯の御好意を非常に有難いことに感じて、御寄贈の一文は之を鄭重なる巻物に装幀して宝庫のうちに永く珍蔵して置くのであるが、その全文は左の通りのものである。尤も原文には訓点が無い。三島先生の御一文は私が平素胸中に懐く経済道徳説を、経子によつて能く確然と根拠のあるものとして下されたもので、私の論語算盤説はこれによつて、一層確乎としたものになつたやうな気がするのである。
 朝鮮に事業を営んでる方に西原亀三氏といふのがある。先般故人となつた朝鮮銀行総裁市原盛宏氏の門下で、寺内総督なぞとも懇意の間柄であるらしいが、この人が四月中「商人の本旨」なる小冊子を著はし、商人は其精神の根柢を道徳の上に置かねばならぬことを説かれて居る。私にも一本を贈られ。その書を読んで起した感想を、序とか跋とかいふやうなものに書いて呉れとの御頼みであつたから、少しばかり長文のやうではあるが、平素懐く所の意見を敷衍して、四月十七日に左の如き蕪文を起草し、それに三島先生の一文を添へて送つて置いたのである。
 正経の業務に就き、適当の手段によりて収め得たる個人の利殖は素より公益と択ぶ所なくして、是れやがて道徳経済の一致を意味するものなり。されば農夫の田圃に耕すも、工人の百貨を作るも、要は其収むる処の利益が適当の手段に依るにあり。独り農工商に於てのみ然るにあらず。凡そ政治、軍事、法律、教育等各種の職に在る者も其の従事する処によりて収得する貨財は、皆以て同一といふを得べし。然るに、商人にありては、動もすれば其本旨を誤るものあるは、是れ其業務の常に邪路に誘惑せらるる機会の多きが為めにして、甚しきは貪慾に陥り、終に道徳経済相背馳するに至る。慎まざるべからざるなり。本篇の趣意、能く公益私利の分るる所を説きて商人の本分を明晣にせられしは、頗る適切の言といふべし。余曾て論語算盤といふ一説ありて、常に道徳経済の義を子弟に訓示せしに偶々中洲三島先生の聴く処となりて、為めに一篇の文章を寄せられたれば、茲に附録して以てこれを送る。若し夫れ本篇の考証となるを得ば幸甚。
   大正五年丙辰四月
         相州湯河原客舎に於て
                 青淵渋沢栄一識
 不正な方法によつて獲た利得は之を称して俗に「悪銭」と申すのであるが、古来「悪銭身につかず」といふ俚諺のあるほどで、不正な方法で手に這入つた金銭は、決して永く其の人の手中にあるものでは無い。然し道徳に反する所行を致して作つた資産でも、急に喪くなつてしまはずに、永く其まま其人の手中に留まつてる如き例が無いでも無い。それでは「悪銭身に付かず」との俚諺も何だか的確にならぬやうに思はれるが、これには又原因がある。
 如何に道徳に反するやうな所行をして悪銭を溜めた人でも、永久に悪を続けてゆくものでは無い。大抵の処で善心に立ち還り、これまでとは反対に、善業を積むやうに心懸け、従来犯し来つた悪を月賦か年賦で済し崩づしにして償還するやうになるものである。此の逓減の償還で、是れまで犯し来つた悪が段々消えてゆくやうになるものだから最初道徳に反して溜めた悪銭でも、それが其人の身について急に喪くなつてしまはぬやうな例がある事になるものである。又如何に道徳に反するやうな悪の行を為る人でも、志までが悪であると決つたもので無い。行が悪で正しくなくつても、志の善で正しい人があるものである。斯く志が正しくつて行の正しからざる人の溜めた悪銭も、行の悪いところが志の善いのによつて多少帳消しにされ、子孫末代までの永持ちは六ケしいかも知れぬが、兎に角其人一代だけは身について離れぬやうな例もあるものである。それから又、行は正しく善であるが、志の間違つて正しからぬ人もある。斯る人の溜めた資産も悪銭であるには相違ないが、猶且、志の正しからざる処が行の正しい処によつて多少帳消しにせられ、その悪銭も急に其人の身を離れず、兎に角其人一代だけは其人の身について居る場合が無いでも無い。
 加之、悪銭を溜めるほどの人には、概ね秀れた智恵のあるもので、仮令、それが行も志も共に正しからぬ人であつたにしても、その秀れた智恵によつて、志と行との正しからざる処を多少帳消しにし、兎に角自分一代だけは其悪銭を持ち続けてゆけるものである。然し、孰れの場合にも悪銭は子孫末代までも持ち続けてゆけるものでなく、結局永持ちせず、其人の身から離れて往つてしまふものである。つまり永い時間の中には悪銭身につかずといふ事になるのである。
 また古くから、「財悖つて入るものは復悖つて出づ」といふ諺がある。一攫千金の相場で儲けた金銭なぞが則ちそれで、手に這入るときは随分盛んな勢ひでどしどし這入つて来るが、さあ損をするといふ時になると、これも亦、盛んな勢ひでどしどし出てゆき、元も利も無いやうになつてしまふものである。これに就いて一つの面白い実例を私は知つて居るのである。たしか明治四十年か四十一年の頃であつたと思ふが、その頃相場で儲けて四十万円ばかりの身代になつた野村といふ人があつた。甚く病気を煩つて床に就いたのであるが、その時の看病婦が私の世話を焼いて居る東京養育院出身の孤児であつた関係から看護の間に色々と養育院の事などを話して聞かしたと見え、野村が養育院に寄附金をしようとの気があると、私に伝へてくれたものがあつた。さういふ篤志が当人にあることならば、当人の功徳にもなることゆゑ、一万円ばかり養育院に寄附してもらひたいものだと私は思つて一日同人を私の兜町の事務所に招き、一万円寄附の件を話し込んで見たのである。ところが、同人が養育院へ寄附の意志があるかのやうに私の耳へ伝へられたのは、何か話の行違ひから起つたことで、同人には全く斯る意志が無かつたのである。然し私より諄々と説いた末同人も結局その気になり、遂に二千円を寄附したのである。
 その中、又この野村と懇意にして居つたもので、(既に故人となつてしまつたが)私とも懇意にして居つた者に松村といふ人があつた。一日私を訪ねて参り、野村が二千円を養育院に寄附したのは実に非常な奮発で、恰も清水の舞台から飛び下りたやうな心地になつて出金したのだから、この上なほ寄附を同人にさせようとしても、到底それは出来ない相談であるが、同人は昨今賭博がかつた商売の相場師を廃めたいとの気になり、これを渋沢の前で誓ひたいと云うて居るゆゑ、是非同人に遇つて衷情を聴いてやつてくれとの事であつたのである。
 私は之を聴いてそれは誠に殊勝な結構な心掛けであると存じたので直に野村と面会する事に致し、同人は私の面前で以後相場に手を出さぬ事を誓つたのであるが、それは丁度渡米実業団の一行に加はつて私が渡米する前の明治四十二年九月頃であつたやうに記憶する。同人は斯く私に誓言をして置きながら、猶且相場は廃められなかつたものと見え、私が米国から帰つて来て、同人の近況を聞いて見ると、折角儲けた四十万円の金銭を私の留守中に総て損つてしまつたとの事であつた。相場や何かによつて一攫千金で儲けた盛つて入つた金銭は、総て皆斯くの如く又盛つて出るものである。こんなにして野村が四十万円皆喪くしてしまふ位であつたならば、せめて一万円だけでも養育院に寄附して置いてくれれば、その功徳が末代に残つたのであるが、盛んな時には又さういふ気になれぬものだから実に遺憾の次第である。
 私が相場で金を儲ける事を嫌ひ、投機仕事に反対するのは、投機仕事は商売の精神に違背するからである。商売の徳は売る者も買ふ者も共に利益を得て悦ぶところにある。
 仮令ば、甲が乙から十円で買つた物を、丙に十三円で売つたとすれば、甲は乙に十円で買つてもらつたのを悦び、乙は丙に十三円で売つて三円の利益を得たのを悦び、丙も亦十三円で買つたのを悦び、三方が悦んで其の間に苦痛を感ずる者は一人もないのである。然るに、投機になるとさうはゆかぬもので、必ず損して悲しむ者が現はれる。買つて利益を受けたものがあれば、之に売つたものは必ず買手に儲けられた丈の額を損することになるのである。随つて投機は商売でないと云ふ事になる。能く世間では商業は平和の戦争であると謂つたり、或は「商戦」等の文字を用ひたりするが、商売は決して戦争で無いのである。戦争には必ず勝敗があつて、一方が勝つて利益すれば、一方が損害を受くるに決まつたものである。若し五分五分で引分けになれば両方共に損害を受けることになる。然し、商売では投機を除けば決して取引上から損したといふものは一人もなく、何方に向いても利益を得て悦んでる者ばかりになる。これが商売の戦争と全く其根本に於て違ふところである。故に私は商売の事を云つたり書いたりする時に、「平和の戦争」とか、「商戦」とか申す言葉を用ひたくないものだと思つて居る。
子曰。人之過也。各於其党。観過斯知仁矣。【里仁第四】
(子曰く、人の過や各その党に於てす。過を見て茲に仁を知る。)
 これは、矢張、里仁篇の中にある章句だが「党」と云ふ文字の意義は「類」と同じで、兎角人間と申すものは過失を致す場合にも、性癖が必ず其過失の上に顕はれて来るものゆゑ、其人の過失が仁に流れる弊より来たものとすれば、其人の平生が仁厚の性行あるを知るを得べく、又忍に流るる弊より来たものとすれば、其人の平素の性行が、残忍に傾いて居つたものであるのを知り得るのである。私の過失は、何れかと申せば、仁に過ぎるより来るものと思ふのである。
 私は他人に接する時には、何時でもその御申入を聴き入れてあげようといふ心情で之に対することにして居る。さればとて金銭を無暗に恵んでくれとか、或は斯く斯くの仕事を助けてくれとかと御頼みを受けても、悉く之に応じ得らるるものでは無いのである。仮令、自分は如何なる依頼でも之に応じてあげようとの心情で他人に接し、仁を体して居るにしても、若し、之れに応ずる事に依つて、自分が損をする丈ならば先づ可いとしても、当人の利益にならなかつたり、或は第三者の方に損害や迷惑を御懸け申すやうになつては、甚だ申し訳の無い事になる。故に、私とても此の点に就ては十分注意致して居るのであるが、動もすれば仁に過ぎて、世話をせずとも可いものを世話してやつたり、引き受けずとも可い頼事を引き受けて過失をするやうな事もある。然し、「人の過や各その党に於てす」であるから、この過失も私が仁を体せんとするに汲々たるの致す処と世間で見て下されば私は実に仕合せである。
 明治維新の諸豪傑の中で、仁に過ぎて其結果、過失に陥るまでの傾向があつた御人は誰かと申すに、西郷隆盛公なぞが即ち其人であらうかと思はれるのである。明治十年の乱が起つた事なぞも、畢竟、西郷公が部下のもの共に対せられて、余りに仁に過ぎたるの致す所であると申さねばならぬ。西郷公は、飽くまで他人に対するに仁を以てせられた方で、遂に一身をも同志の仲間に犠牲として与へられたので、遂に彼の十年の乱を見る始末となつたのである。木戸孝允公なぞも、仁の方に傾かれた人であるから、木戸公に若し過失があつたとすれば、それは矢張、仁に過ぎるより来たものである。
 江藤新平さんは、西郷公や木戸公とは全然反対の傾向を持たれた人で、これは又忍に過ぐる方であつたのである。江藤さんは他人に接すれば、何よりも先きに、まづ其人の邪悪な点を看破するに力められ、人の長所を見ることなぞは之を後廻しにせられたものである。仁に過ぎるのと忍に過ぎるとの孰れが可いかと申すに、忍に過ぎて過失をする人よりも、仁に過ぎて過失をする人の方が無論よろしからうと思ふのである。孔夫子が論語に於て特に「人の過や各其党に於てす、過を観て斯に仁を知る」と仰せられた所以も、この意を叙べられたるに外ならぬもので、人は仮令過失を致しても、その過失が仁に過ぎたるより起つた質のものであらねばならぬと教へられたものであらうかと存ずるのである。
 大久保公は、西郷公と江藤さんの中間にあつた人で、仁に過ぎず忍に過ぎず、仁半、忍半といふ如き傾向の方であつたのだが、孰らかと申せば、仁よりも寧ろ忍に近い方で、仁四忍六の塩梅であつたかの如くに思はれる。仁五忍五であつたと申上げたいが、什麽も私は爾う申上げかねるやうに思ふのである。
 明治十八年十二月二十三日の詔勅によつて、新に内閣の制を布かれ伊藤博文公が内閣総理大臣に親任せらるるまで、明治三年以来太政大臣であらせられた三条実美公は、是又、仁の人であつた。至つて円満で、見た所如何にも優しさうに想へたものであるが、それで決して仁一方といふ丈けの人では無く、外面の柔かなるにも似ず内面には却々硬骨なところのあつた方である。
 徳川幕府の末に当り、朝廷は攘夷の御意嚮であつたのだが、幕府では容易に勅命を奉ぜぬので、什麽しても幕府を倒してしまはねばならぬといふことになつたのである。それには、宮内の制度が従来の如くであつては、勢力が微弱で駄目だといふので、これまで宮内に置かれてあつた政務官たる伝奏とか議奏とかいふ役目を廃し、代るに国事掛を以てし、三条公以下専ら其間に采配を振り、国事掛には尊王攘夷の精神勃々たる壮年血気の志士を主として集められたのである。三条公等の意は之によつて幕府の専横を制肘せんとするにあつたのだが、国事掛に集つて来た志士は、主に長州出身であつたので、軈て又、薩州の嫉視を受くるに至つたのである。
 申すも畏れ多いことであるが、孝明天皇の御叡慮は其初め攘夷に在らせられたので、三条公等の計図も是処までは旨く進行したのであるが、その結果、余りに攘夷熱が昂まり過ぎて、攘夷倒幕党の勢力天下を風靡するを御覧ぜられては、流石、孝明天皇におかせられても、攘夷熱を余りに煽り過ぎたのに思召し気づかれ、畏れながら宸襟を悩ませらるることになつたものである。
 幕府は主上に斯の思召しあるを看て取るや、長州が君側に勢力を揮ひつつあるに憤慨して嫉視を禁じ得なかつた薩州を旨く味方に懐き込み、幕府の勢力と薩州の勢力とを聯合さして朝廷より長州の勢力を駆逐し、幕府に対する朝廷の圧迫を脱せんとする計画を立て、攘夷の朝議を変更するまでになつたのである。
 幕府と薩州との連衡によつて最も苦しめられたものは素より長州であるが、長州の勢力を国事掛に植ゑて采配を振つて居られた三条公等の位置も、為に頗る危険の状態に瀕し、一命すら危くなりかけて来たので、文久三年八月十八日遂に三条公は東久世通禧卿以下六君の攘夷実行に骨を折つた公卿を率ゐ、相共に、京都を脱走して長州に亡命したのである。一行公卿の数が三条公とも七人であつたので、今日までも「七卿落」として人口に膾炙し、維新の歴史に有名なものになつたのである。そこでこれまで堺町御門の守護を承はつて居つた長州の兵が追ひ払はれて、薩州の兵士が之に代り、堺町御門を警護する事になつたのである。
 三条実美公は、外面の柔和円満なるに似ず、内面には斯く硬骨なところのあらせられた方であるが、略といふものは全く無かつたものである。然し、岩倉具視公は、三条公と違つて却々略に富んだ人であつた。明治維新の鴻業を成就するに当り、表面に立つて主宰せられた方は三条公であるが、実際に於て維新の鴻業を大成し、王政復古の政を施くに最も力を尽くされたものは、岩倉公である。
 三条公以下七卿が長州に亡命し、京都を留守にして居られる間に、岩倉公は皇妹和宮を将軍家茂の御台所として降嫁せしめ、公武合体を計つたといふ科で勅勘を蒙り、洛外に謫居謹慎を命ぜられて居つた身でありながらも、私に諸藩の志士と謀を通じ、従来犬猿も啻ならざる間柄であつた薩州と長州とを妥協せしめ、之に土肥の二藩をさへ加へちやんと維新の膳立を調へあげて置き、それから三条公等を長州より召び戻し、相共に協力して維新の鴻業を大成し、三条公は明治三年に至つて太政大臣になられたのである。然し、岩倉公には三条公よりも略があつた丈け、それ丈け、又維新の鴻業には三条公よりも其実際の功が遥に多かつたのである。
 三条実美公は略の無かつたと共に、又定見のなかつた御仁である。斯く申上るは畏れ多いことであるが、三条公は全く無定見の方であらせられた。今日或る者から意見を申上げると、其日は其気になつて居られるが、明日になつて又他の者から違つた意見を申上げると、矢張又その気にならせられる。始終、御自分の御意見はふわふわして孰辺にでもなるといふ具合の方であつたのである。殊に経済上の問題になるとこの無定見が一層甚だしかつたやうに私には想はれたのである。
 三条公は、元来殿上人で公卿の御出身であらせられたから、経済の事などに精通して居られさうな筈もなく、随つて財政上の知識も乏しくあらせられたので、斯く無定見に陥られたものでもあらうが、太政大臣をして居られた頃、太政官の参議の方から、斯く斯くの事業の為に経費を支出するやうにとの御依頼を御受けになれば、それ丈けの支出をするに足る財源の果してあるや否やなどに就ては篤と調査もせられずに、之に承諾を与へてしまつたものである。然しそれが大蔵省の方に廻つて来てから、私等よりとても爾んな事業の為に支出する丈けの財源が無いからとて跳ね付けてしまへば、なるほど其れも尤もだといふ気にならせられたもので、毫も確乎たる定見があつて決裁を与へらるるんでは無かつたのである。随つて三条公は太政大臣の職に在らせらるる間、始終、太政官の参議側と各省の当局者側との間に挟まつて非常に困られて居つたものらしい。
 現に私が、大蔵省に故井上侯の次官の如くになつて勤めて居つた頃の事であるが、三条公は両三度私を神田小川町の茅屋に御訪ね下されたほどである。三条公は当時太政大臣で、昨今で申せば内閣総理大臣である。世間から其の頃の太政大臣は、今日の総理大臣よりも猶ほ重く貴く見られて居つたものであるが、その貴い太政大臣の三条公が大蔵省の一小官に過ぎぬ私の私宅を態々御訪ね下されたのであるから、私も大に恐縮に存じたのであるが、井上侯は大蔵大輔で、如何に太政官からの命でも財源が無いから支出するわけにゆかぬと頑張るに拘らず、太政官の参議方は什麽しても支出させろと太政大臣の三条公に迫るので、三条公は之を井上侯に御相談になると、井上侯は例の気質でそんなに無理を云ふことなら直ぐ辞職してしまふからと騒ぎ出すのに手古摺られ、私へは井上侯を余り騒がせぬやうにしてくれ、井上が騒ぐのみか渋沢まで一緒になつて退くの辞職するのと騒がれては全く困つてしまふから、との御話であつたのである。然し私は断然として無い財源からは如何に御懇談でも支出するわけには参らぬと、明瞭と拒絶を申上げたのであつたが、三条公は万事に斯んな調子で、定見の無かつた為に何時でも甲乙懸争の板挟になつて困られたものである。
子曰。朝聞道夕死可矣。【里仁第四】
(朝に道を聞いて、夕べに死すとも可なり。)
 この章句は、朝に道を聞いてしまひさへすれば、晩になつて死んでしまつても拘はぬと孔夫子が教へられたものであるかの如くに一寸稽へられぬでもなく、現代の語でいふ厭世趣味を帯びて居るかのやうにも見えるが、孔夫子御教訓の御趣意は決して厭世的のものでなく、ただ道の重んずべきを教へられたのに過ぎぬのである。然し維新時代の志士とか、又尊王攘夷に奔走した人々であるとか申すものは、自分の懐く意見を孔夫子の所謂「道」なりと信じ、この意見を実行する為めには仮令一命を棄てて死んでも、敢て意とする所に非ずとし、孰れも皆孔夫子の御説きになつた茲にある「朝に道を聞いて夕べに死すとも可なり」の章句を金科玉条として遵奉し、この章句に動かされて活動したものであつたのである。
 私の如きも廿四歳で尾高惇忠、渋沢喜作等と謀り、一挙して高崎城を乗り取り、之によつて兵備を整へ、高崎より兵を繰り出し、鎌倉街道を通つて横浜に出で、洋館に火を放つて外国人を掃蕩し、以て攘夷の目的を達して幕府を倒さうなぞと稽へた頃には、常に孔夫子の説かれた斯の章句を胸に想ひ浮かべて居つたものである。
 井伊掃部頭を桜田門外に刺した水戸浪士の面々なども、刺殺の暴挙によつて刑戮に処せられ、一命を棄てねばならぬやうになることを、十分承知して居りながら、尊王攘夷の目的を達する為には掃部頭を刺すのが道であると信じたので、之が為に死する事は孔夫子の説かれた「朝に道を聞いて、夕べに死すとも可なり」の教訓を実現するものなりと信じ、彼の如き一挙を敢てしたものである。其他維新後の人々は皆斯の章句を我が精神とし、盲滅法に進んだものであるが、孔夫子は決して桜田浪士の如き挙動を慫慂せんが為に、斯の章句を説かれたもので無い。ただ、生命に換へても道の重んずべきものたるを教へられたに過ぎぬのである。
子曰。放於利而行。多怨。【里仁第四】
(子曰く、利によりて行へば、怨み多し。)
 茲に掲げた章句を説明する為には、敢て一々実例を引照して申述ぶるまでも無く、ただ自分の利益になりさへすれば、他人は如何なつても関心はぬといふ処世振りで世の中を渡つて居る人が、世間から種々と怨みを受けて居る事実は、殆ど枚挙に遑あらぬほど其処此処に沢山ある。我利一点張りで世間に対し、自分の利益を謀る事にのみ汲々たる人で、世人の怨みを受けて居らぬ者は、殆ど一人も無いと謂つても過言ではあるまい。
 かく、自分の利益のみを謀る事が、世人より怨恨を受くる原因になるものだとしたら、人は何を目安にして行動するのが宜しからうか、他人の利益を謀る事を目安にして然べきものだらうか――これは実際上、世に処するに当つて、多くの人々の胸中に湧く惑ひである。
 物事は何んに限らず、道理に照らして其是非を判断するのが、最も安全な法である。自分の利益のみを目安にして行動すれば、怨恨を世間より受けるやうになるし、さればと謂つて、他人の利益をのみ目安にして行動すれば、徒に宋襄の仁に流れて、自分を亡してしまふやうにならぬとも限らぬ。依つて多少他人が困るやうな行動に出でねばならぬ場合には、その行動が果して道理に合ふや否やを先づ稽へ、道理に合ふ処置であると信じたら、断じて決行するが可いのである。一例を挙げて云へば、私は銀行業を営む者であるから、銀行業者として或る抵当物を担保に取つて貸金をする事がある。金を借りた債務者が返金を致さぬ場合には、止むなく斯の担保に取つて置いた抵当物を処分せねばならぬことになる。その場合、抵当物を処分してしまへば、先方は困るに相違無いが、銀行業者の斯の措置を、利によつて行つたものだと謂ひ得べきものでも無く、又斯く致したからとて、銀行業者は世間から怨恨を受くる筈のものでも無いのである。何故なれば、銀行業者の斯の措置は道理に合つたことで、毫も道理に外れた所が無いからである。
子曰。不患無位。患所以立。不患莫己知。求為可知也。【里仁第四】
(子曰く、位無きを患へずして、立つ所以を患へよ。己を知る莫きを患へずして、知らるべきを為すを求めよ。)
 茲に掲げた章句と同じやうな意味のことは、従来談話致したうちにも、既に屡々申述べ置いたのであるが、青年子弟諸君は、動もすれば自分の境遇位置が意の如くで無い為に仕事ができぬとか、手腕を揮ひ得ぬとかと、不平を鳴らしたがるものである。然し、爾ういふ人は、仮令、その人の境遇位置が順当になつても、平素広言したやうに大きな仕事のできるもので無いのである。又斯る考へを平素懐いて居る如き人には、自分の望む如き恰好な境遇位置が容易に到来するもので無い。されば人たるものは斯くの如き空想を懐いて、現在の境遇位置に対する不平を鳴らすよりも、現在の境遇位置に処して、果して能く自分の義務責任を完全に尽くして居るや否やを稽へ、之を果す事に全身の努力を傾注するが可いのである。然らずんば、何時まで経過ても衷心に安心立命を得られず、日々不安不平の念に駆られて、生活さねばならぬことになる。これが孔夫子の「位無きを患へずして立つ所以を患へよ」と説かれた所以である。孔夫子は、論語の里仁篇に於てのみならず、他の個所に於て「来らざるを恃まず、以て待つあるを恃む」とも仰せになつて居る。その御趣意は自分の希望の如く果して成るものか成らぬものか判然せぬ境遇及び位置の改善を恃みとせずに、何時如何なる難渋な境遇、如何なる高い位置に置かれても、之に処して失態を醸さざるまでに、旨く其境遇位置に処してゆける丈けの素養を平素より蓄へ、之を恃みにして安心立命を得るやうに致すべきものだといふにある。
 また、如何に自分が豪いぞと威張り散らして、世間へ触れ廻つて歩いたところで、世間では決して其人を豪いと認めてくれるものでも無いのである。然るに青年子弟諸君のうちには、自分の技倆才能を世間が認めてくれぬからとて不平を起して騒いだり、又世間に名を知られたいからとて、己れは豪いぞ豪いぞと威張り散らして歩く者がある。それよりは、平素の修養によつて着実に実力を養成し、実行によつて着々効果を挙げるやうにするが可いのである。斯くさへすれば敢て求めずとも、其人は世間に知られるやうになるものである。この点は功名心の盛んな青年子弟諸君の篤と心得置くべきことで、孔夫子御教訓の趣旨も実に茲に存するのである。
子曰。参乎。吾道一以貫之。曾子曰。唯。子出。門人問曰。何謂也曾子曰。夫子之道。忠恕而已矣。【里仁第四】
(子曰く、参や、吾が道は一以て之を貫く。曾子曰く、唯。子出づ。門人問うて曰く、何の謂ぞや。曾子曰く、夫子の道は忠恕のみ。)
 曾子とは曾参のことであるが、孔子教には、孔夫子の御弟子中の俊秀なる者十人を選んで、之を「十哲」と称する外に、なほ孟子、顔淵[、]曾参、子思の四人を選んで「四配」と称して尊崇し、孔夫子を御祀り申す時には、この四人を夫子の陪賓の如くに配して御祀り申上ぐる慣習がある。現に東京湯島の聖堂にも孔夫子に斯の四配を配して祀つてある。
 曾参、即ち曾子と申さるる方は、孔夫子の御弟子中でも殊に秀れた人材で、単に学問が深かつたのみならず、非常に親孝行な人であらせられたのである。「身体髪膚之を父母に受く」の句があるので有名な「孝経」の如きも、孔夫子が曾子に孝を説かれた時の御教訓である。曾子は実に、何かにつけて偉大なる趣のあらせられた大人物である。
 一日孔夫子はこの曾子を捉へられて、「吾が道は一以て之を貫く」と、禅宗の和尚さまの問答めける漠として捕捉し難いやうな言を発せられたのである。すると、曾子は僅に一言「唯」と答へられた。つまり「解りました」と曰つたのと同じである。傍に此の問答を聴聞致して居つた曾子の門人等は「さて〳〵不思議な事もあればあるものだ。大師匠の孔夫子は、我が説く所の道は多岐に分れて種々になつてるが之を貫いてるものが唯一つあると仰せられた丈けで、その一つの果して何者なるやをも仰せになつて居らぬのに、曾子が之を聞いて「わかりました」と答へられたのは実に妙だ」と孔夫子が御留守になつてから曾子に対ひ、「一体全体――その一つ――は何であるか」と質問に及んだのである。曾子の之に答へられたものが茲に掲げた章句の重要なる点である。
 曾子は、孔夫子四配の一として祀らるるほどに偉大な人物であらせられた丈けあつて、日夜孔夫子に親灸する間に於て、よく孔夫子の御精神を呑み込んで理解し居られたものと見える。依つて言下に答へて「忠恕のみ」と道破し得られたものである。つまり、以心伝心で、曾子は孔夫子の御精神を感得して居つたのである。孔夫子の各方面に亘る多年の御教訓も、之を小さく凝集てしまへば、結局曾子の言の如く「忠恕」の二字に帰し、論語の教訓もつまる所は「忠恕」の二字に出でぬものである。されば、論語の根本義を知らんとする者は、まづ何よりも先きに「忠恕」の如何なるものであるかを心得置かねばならぬのである。
 忠恕とは果して如何なるものか、これは随分六ケしい問題である。耶蘇教で謂ふ「愛」は曾子の所謂「忠恕」に似たものであるかのやうに思はれるが、其辺のところは、私に於て確言致しかねる。然し孰れにしても「忠」とは衷心よりの誠意懇情を尽くし、何事に臨んでも曖昩加減な態度に出でず、曲らずに真つ直ぐな心情になることである。それから「恕」とは平たく謂へば「思ひやり」と同じ意味で、事に臨むや先方の境遇――先方の心理状態になつて稽へてやる事である。然し、忠と恕とは個々別々のものであるのでは無い。この忠と恕との一つになつた「忠恕」といふものが、是れ即ち、孔夫子の一貫した御精神で、又論語を一貫する精神である。
 忠恕の精神とは斯く斯くのものであると、一々条件を挙げて説明するのは却々至難のことであるが、論語に親しみさへすれば曾子の如く之を感得することのできるものである。総ての人が之を感得して、常に衷心に忠恕の精神を絶たず、更に配するに智略を以てさへすれば、世の中の事は総て円滑に進行し、ゴタゴタなぞもなくお互に平和に生活してゆけるものである。世間が意の如くならず、紛擾喧噪を絶たぬのは、一に今の人々に忠恕の精神が欠乏して居るからである。
 世に処するに当つて、人に取り何よりも大事なものは忠恕の精神であるが、この精神を行為に顕はして実地に行はんとするには、智略即ち智と略が無ければならぬものである。つまり智略は忠恕の精神が因となつて活動するに当り必須の縁である。
 智とは、事物を観察して判断する力が無ければ、如何に忠恕の精神を行はうとしても如何にして実際に処して然るべきか、見当がつか無くなる。又略が無ければ忠恕の精神を実際の行為に顕はしても、却て他人に災禍を齎らすやうな結果になるものである。従来「略」なる語は「術策」の意味に用ひらるる場合が多く、悪い聯想を伴ふことになつてるが、私の所謂「略」は決して爾んな悪い意味の含んだもので無く、善良なる意味に於ける「略」を指したもので、臨機適宜の工夫、即ち「方便」と同じ意味のものである。
 然るに、今の世間の多くの人々が、事物に対して所理する所を見るに智略だけはあるが智略の原動力となるべき筈の忠恕の精神を欠いてるのである。智略だけがあつて忠恕の精神を欠く人の行動は、ただ恩威のみを以て万事万人に臨むこととなり、その間に毫も温い正直な処がないから、人心を動かし得らるるものでも無ければ又社会を動かし得るものでも無い。
 恩威とは平たく謂へば、金銭と拳固との事である。忠恕の精神を実地に行ふ為には、甘くして他人に接したばかりでも駄目なもので、時には拳固を握つて見せ、大に威しつけてやる事が必要な場合もある。さればとて又、拳固を示して威しさへすれば天下の者が皆其威に恐れて、万事万端うまく進行してゆくといふものでも無い。時には、金銭を呉れて恩を衣せてやらねばならぬ場合もあるものである。かく金銭と拳固と、拳固と金銭を互ひ交ひに見せて、うまく事物の進行を謀る間に恩威が並び行はれて、智略が功を奏することになるものであるから、恩威を併せ行ふことも素より処世の上に必要であるが、恩威が行はれて居るだけで、其根本となるべき忠恕の精神を欠いて居つては、恰も下世話にいふ仏を作つて魂を入れぬやうなもので、折角行つた恩威が恩威の功徳を顕さず、結局労して功なきに至るものである。恩威をして十分の効果を挙げしむるものは実に忠恕の精神である。智略をして其効果を得せしむるものも亦忠恕の精神である。
 日本の支那に対する措置の如きも、先づ忠恕の精神を以て同国の上下に臨み、之を行ふに智略を以てさへすれば、良好の効果を挙げ得らるべき筈のものである。私は平素より支那問題に就ては深く斯の点を憂慮し、機会のある毎に外交の当路へも「支那に対するには何よりも先づ、忠恕の精神を以てするやうに……」と申入れて置くのであるが什麽も私の冀ふが如くにならず、忠恕の精神を欠いた智略のみを以て臨むことになり勝ちなので、ただ恩威を行はんとするにのみ流れ骨折つた割に結局効果が挙らぬ事になつてしまふらしく思へるのである。処世でも外交でも、根本は総て同じものである。忠恕の精神を以て臨まなければ、決して旨く円満に進行し自他共に悦ぶといふまでになれるもので無いのである。
 忠恕の精神は単に支那に対する外交上に必要のものたるのみならず又米国に対する外交にも必要である。否な、国と国との国際関係には個人と個人との交際に忠恕精神を必要とする如く矢張みな忠恕の精神を要するものである。米国が日本に対して忠恕の精神を持し、日本が米国に対して又忠恕の精神を持つてさへ居れば、両国の国交は永遠に円満であり得べきである。何れの国と国との間に於ても、国交の破裂を見るに至るのは忠恕の精神に欠くのが常に原因になつて居る。国際の円満は相互の忠恕によつて始めて期し得らるるものである。
子曰。君子喩於義。小人喩於利。【里仁第四】
(子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る。)
 君子は、何事に臨んでもそれが果して義しくあるか、或は義しく無いかと云ふ事を稽へ、それから進退の如何を決するもので、義しきに従つて所置するを主義とするのだが、小人は利害を目安にして進退を決し、利にさへなれば、仮令それが義に背くことであらうと、そんなことには一向頓着せぬものである。つまり、万事を利益本位から打算するのが小人の常で、正義の標準に照らし万事を処置するのが、君子の常である。故に同じ一つの事柄に対しても、小人は之によつて利せん事を思ひ、君子は之によつて義を行はんことを思ひ、其間の思想に天地雲泥の差があるとは、孔夫子が茲に掲げた章句の中に説かれた御趣意である。
 物事を利に喩つた方が利益であるか、将た義に喩つた方が利益であるか――この問題は一寸解決の難かしいもので、利に喩るのが必ずしも其人の不利益にならぬ場合がある。否寧ろ、其人に利益になる場合が無いでも無い。少くとも目前の利益丈けは確実なる場合がある。私は之に就て実際上に経験した一例を持つて居るから、茲に談話致して置かうかと思ふ。
 鉄道は、明治三十九年三月三十日に公布せられた法律によつて、国有といふことになつたのだ、その買収代金は鉄道債券で政府より買収会社に交附したものである。その債券は追つて鉄道公債に引換へられることになつて居つたのだが、まだ債券が本当の公債にならなかつたので、三十九年の暮から四十年にかけて、債券の市価は著しく下落したものである。当時、この鉄道債券を買ひ込んで置きさへすれば将来は必ず大に儲かるに決定つてたものである。
 私は銀行業者として当時に於ける金融状態を能く承知して居つて、政府が到底鉄道公債を発行し得ぬやうになるほど、四五年内に一般市中の金利が昂騰する筈が無い形勢をも知り、又政府の財政が到底公債を償還し得ぬほどに窮乏せぬ事をも能く知つて居たので、一時下落した鉄道債券の市価は鉄道公債に引換へらるると共に、必ずや騰貴すべきを明察し得たのである。依て、私は第一銀行に薦めて朝鮮鉄道の債券を買入れしめ、又愛国婦人会や慈恵会などに薦めて矢張鉄道債券を買はして置いたのだが、果して私の予想した通りで、鉄道公債に引換へらるるや市価は著しく騰貴したのである。買ひ込んで置いた人々は之によつて少くも三割見当の利益を占めたのである。
 斯く、買ひさへすれば必ず儲かるものに決定つて居り、又買つた人は実際に於て大に儲けたほどであるから、当時私より他に薦めて買はせもしたが、私自身では当時唯の一枚も鉄道債券を買はなかつたのである。見す見す私は大きな儲けを逃がしたやうなものであつたが、あの際私は、鉄道債券を利に喩り、うんと奮発して買ひ込んで置きさへすれば、利益を得たに相違無く、私とても買ひ度いやうな気が萌さなかつたでも無い。然し私が実際一枚も買はなかつた事に就ては理由がある。即ち、騰貴るのを予想して之を買ひ込み、騰貴つて儲けたのでは私は投機によつて金儲けをしたといふ事になる。之が厭やだから私は市価の低落した際にも鉄道債券の購入を強ひて避けたのである。
 当時低落した鉄道債券は、周囲の事情から観ても又理論の上から稽へても、騰貴するに決定つてたもので、毫も危険の分子なく確実なものであつたに相違ないが、鉄道債券は確実であるからとて投機的に之を購入すれば、これによつて投機は絶対に致さぬといふ私の操守が破れてしまひ、鉄道債券の購入で利益があつたのに味を占め、それが習慣になつて其後あれも大丈夫だらう是も大丈夫だらうなぞと、続々危険なる投機仕事にも手を出し、遂には産を破り、世間の信用をも失ふやうにならぬとも限らぬのである。さうなれば、鉄道債券を投機的に買ひ入れたことにより、一時は利益を得たやうに見えても、永い歳月のうちには結局、利益どころか大きな損をする事になるのみならず、事業の為に他人の金銭を御預りして居る私は惹いて他人様に御迷惑を懸けねばならぬやうな事にもなる。これが、私が必ず利益のあるものと知りつつ、低落した市価の鉄道債券を当時一枚も買はなかつた理由である。
 私は、如何なる事業を起すに当つても、又如何なる事業に関係するに当つても利益を本位にするやうな事は無いのである。これ〳〵の事業は起さねばならぬものであり、盛んにせねばならぬものであると思へば之を起し之に関係し、その株を持つことにするものである。私は何時でも事業に対する時には、之を利に喩らず義に喩ることにして居る。まづ、道理上起すべき事業であるか、盛んにすべき事業であるか何うかを稽へ、利損は第二に稽へる事にして居る。
 事業を起したり盛んにしたりするには、多くの人々より資本を寄せ集めねばならず、資本を集めるには事業より利潤を挙げるやうにせねばならぬもの故、事業を起すに当つても、素より利潤を全く度外視するわけにゆかず、利潤の挙るやうにして事業を起し或は盛んにする計画を立てねばならぬに相違ないが、事業には必ず利潤の伴ふものと限つたもので無い。利益本位で事業を起したり、之に関係したり、其株を持つたりすれば、利潤の挙らぬ事業の株は売り退いてしまふやうになつたりなぞして、結局必要なる事業を盛んにすることも何もできなくなるものである。
 事業の発達にも色々の径路がある。或る事業は、急速に発達して非常なる利潤を挙げ、忽ちの中に市価が払込額の二倍にもなるやうな場合もあるが、或る事業は漸次に発達して年と共に利潤を挙げるやうになるものである。然し或る種の事業は又容易なことで利潤の挙らぬものである。仮令ば中日実業会社の事業の如き、私は必要なる事業であると信じたから之を起し、自分でも大分その株を持ち、他人にも亦持つて頂いたのであるが、大正三年八月の設立以来、今日まで約二ケ年を経過しても未だに損ばかりで利潤が挙らず、出資者に利益を配当し得られぬのである。
 当初如何に利益を挙げる計画で創めても、中日実業会社の如く利益の挙らぬ事業の例は決して少く無い。然るに事業を総て利に喩つて起したり盛んにしたりしようとすれば、斯く利潤を急速に挙げ得ぬ場合には失望したり厭気を起したりするやうになり、為に国家に必要なる事業も、起らなかつたり盛んにならなかつたりする恐れがある。故に私は事業は之を利に喩らずして義に喩り、国家に必要なる事業は利益の如何を第二とし、義に於て起すべき事業ならば之を起し、その株も持ち、実際に臨んでは利益を挙げるやうにして、其事業を経営してゆくべきものだと思つて居る。私は総て斯の精神で種々の事業を起したり之に干与したり、其株を持つたりして居るもので、斯の株は昂騰るだらうからなぞと稽へて、株を持つた事は未だ曾て無い。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88
底本の記事タイトル:二一七 竜門雑誌 第三三九号 大正五年八月 : 実験論語処世談(一五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第339号(竜門社, 1916.08)
初出誌:『実業之世界』第13巻第13-15号(実業之世界社, 1916.06.15,07.01,07.15)