デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一

17. 耶蘇の「愛」と夫子の「忠恕」

やそのあいとふうしのちゅうじょ

(15)-17

 曾子は、孔夫子四配の一として祀らるるほどに偉大な人物であらせられた丈けあつて、日夜孔夫子に親灸する間に於て、よく孔夫子の御精神を呑み込んで理解し居られたものと見える。依つて言下に答へて「忠恕のみ」と道破し得られたものである。つまり、以心伝心で、曾子は孔夫子の御精神を感得して居つたのである。孔夫子の各方面に亘る多年の御教訓も、之を小さく凝集てしまへば、結局曾子の言の如く「忠恕」の二字に帰し、論語の教訓もつまる所は「忠恕」の二字に出でぬものである。されば、論語の根本義を知らんとする者は、まづ何よりも先きに「忠恕」の如何なるものであるかを心得置かねばならぬのである。
 忠恕とは果して如何なるものか、これは随分六ケしい問題である。耶蘇教で謂ふ「愛」は曾子の所謂「忠恕」に似たものであるかのやうに思はれるが、其辺のところは、私に於て確言致しかねる。然し孰れにしても「忠」とは衷心よりの誠意懇情を尽くし、何事に臨んでも曖昩加減な態度に出でず、曲らずに真つ直ぐな心情になることである。それから「恕」とは平たく謂へば「思ひやり」と同じ意味で、事に臨むや先方の境遇――先方の心理状態になつて稽へてやる事である。然し、忠と恕とは個々別々のものであるのでは無い。この忠と恕との一つになつた「忠恕」といふものが、是れ即ち、孔夫子の一貫した御精神で、又論語を一貫する精神である。
 忠恕の精神とは斯く斯くのものであると、一々条件を挙げて説明するのは却々至難のことであるが、論語に親しみさへすれば曾子の如く之を感得することのできるものである。総ての人が之を感得して、常に衷心に忠恕の精神を絶たず、更に配するに智略を以てさへすれば、世の中の事は総て円滑に進行し、ゴタゴタなぞもなくお互に平和に生活してゆけるものである。世間が意の如くならず、紛擾喧噪を絶たぬのは、一に今の人々に忠恕の精神が欠乏して居るからである。

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デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88
底本の記事タイトル:二一七 竜門雑誌 第三三九号 大正五年八月 : 実験論語処世談(一五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第339号(竜門社, 1916.08)
初出誌:『実業之世界』第13巻第13-15号(実業之世界社, 1916.06.15,07.01,07.15)