デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一

8. 過失によつて人を知れ

かしつによってひとをしれ

(15)-8

子曰。人之過也。各於其党。観過斯知仁矣。【里仁第四】
(子曰く、人の過や各その党に於てす。過を見て茲に仁を知る。)
 これは、矢張、里仁篇の中にある章句だが「党」と云ふ文字の意義は「類」と同じで、兎角人間と申すものは過失を致す場合にも、性癖が必ず其過失の上に顕はれて来るものゆゑ、其人の過失が仁に流れる弊より来たものとすれば、其人の平生が仁厚の性行あるを知るを得べく、又忍に流るる弊より来たものとすれば、其人の平素の性行が、残忍に傾いて居つたものであるのを知り得るのである。私の過失は、何れかと申せば、仁に過ぎるより来るものと思ふのである。
 私は他人に接する時には、何時でもその御申入を聴き入れてあげようといふ心情で之に対することにして居る。さればとて金銭を無暗に恵んでくれとか、或は斯く斯くの仕事を助けてくれとかと御頼みを受けても、悉く之に応じ得らるるものでは無いのである。仮令、自分は如何なる依頼でも之に応じてあげようとの心情で他人に接し、仁を体して居るにしても、若し、之れに応ずる事に依つて、自分が損をする丈ならば先づ可いとしても、当人の利益にならなかつたり、或は第三者の方に損害や迷惑を御懸け申すやうになつては、甚だ申し訳の無い事になる。故に、私とても此の点に就ては十分注意致して居るのであるが、動もすれば仁に過ぎて、世話をせずとも可いものを世話してやつたり、引き受けずとも可い頼事を引き受けて過失をするやうな事もある。然し、「人の過や各その党に於てす」であるから、この過失も私が仁を体せんとするに汲々たるの致す処と世間で見て下されば私は実に仕合せである。

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デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88
底本の記事タイトル:二一七 竜門雑誌 第三三九号 大正五年八月 : 実験論語処世談(一五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第339号(竜門社, 1916.08)
初出誌:『実業之世界』第13巻第13-15号(実業之世界社, 1916.06.15,07.01,07.15)