デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一

5. 悪銭も時には身につく

あくせんもときにはみにつく

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 不正な方法によつて獲た利得は之を称して俗に「悪銭」と申すのであるが、古来「悪銭身につかず」といふ俚諺のあるほどで、不正な方法で手に這入つた金銭は、決して永く其の人の手中にあるものでは無い。然し道徳に反する所行を致して作つた資産でも、急に喪くなつてしまはずに、永く其まま其人の手中に留まつてる如き例が無いでも無い。それでは「悪銭身に付かず」との俚諺も何だか的確にならぬやうに思はれるが、これには又原因がある。
 如何に道徳に反するやうな所行をして悪銭を溜めた人でも、永久に悪を続けてゆくものでは無い。大抵の処で善心に立ち還り、これまでとは反対に、善業を積むやうに心懸け、従来犯し来つた悪を月賦か年賦で済し崩づしにして償還するやうになるものである。此の逓減の償還で、是れまで犯し来つた悪が段々消えてゆくやうになるものだから最初道徳に反して溜めた悪銭でも、それが其人の身について急に喪くなつてしまはぬやうな例がある事になるものである。又如何に道徳に反するやうな悪の行を為る人でも、志までが悪であると決つたもので無い。行が悪で正しくなくつても、志の善で正しい人があるものである。斯く志が正しくつて行の正しからざる人の溜めた悪銭も、行の悪いところが志の善いのによつて多少帳消しにされ、子孫末代までの永持ちは六ケしいかも知れぬが、兎に角其人一代だけは身について離れぬやうな例もあるものである。それから又、行は正しく善であるが、志の間違つて正しからぬ人もある。斯る人の溜めた資産も悪銭であるには相違ないが、猶且、志の正しからざる処が行の正しい処によつて多少帳消しにせられ、その悪銭も急に其人の身を離れず、兎に角其人一代だけは其人の身について居る場合が無いでも無い。
 加之、悪銭を溜めるほどの人には、概ね秀れた智恵のあるもので、仮令、それが行も志も共に正しからぬ人であつたにしても、その秀れた智恵によつて、志と行との正しからざる処を多少帳消しにし、兎に角自分一代だけは其悪銭を持ち続けてゆけるものである。然し、孰れの場合にも悪銭は子孫末代までも持ち続けてゆけるものでなく、結局永持ちせず、其人の身から離れて往つてしまふものである。つまり永い時間の中には悪銭身につかずといふ事になるのである。

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キーワード
悪銭, 身につく
デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88
底本の記事タイトル:二一七 竜門雑誌 第三三九号 大正五年八月 : 実験論語処世談(一五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第339号(竜門社, 1916.08)
初出誌:『実業之世界』第13巻第13-15号(実業之世界社, 1916.06.15,07.01,07.15)