21. 私は一枚も買はぬ
わたしはいちまいもかわぬ
(15)-21
斯く、買ひさへすれば必ず儲かるものに決定つて居り、又買つた人は実際に於て大に儲けたほどであるから、当時私より他に薦めて買はせもしたが、私自身では当時唯の一枚も鉄道債券を買はなかつたのである。見す見す私は大きな儲けを逃がしたやうなものであつたが、あの際私は、鉄道債券を利に喩り、うんと奮発して買ひ込んで置きさへすれば、利益を得たに相違無く、私とても買ひ度いやうな気が萌さなかつたでも無い。然し私が実際一枚も買はなかつた事に就ては理由がある。即ち、騰貴るのを予想して之を買ひ込み、騰貴つて儲けたのでは私は投機によつて金儲けをしたといふ事になる。之が厭やだから私は市価の低落した際にも鉄道債券の購入を強ひて避けたのである。
当時低落した鉄道債券は、周囲の事情から観ても又理論の上から稽へても、騰貴するに決定つてたもので、毫も危険の分子なく確実なものであつたに相違ないが、鉄道債券は確実であるからとて投機的に之を購入すれば、これによつて投機は絶対に致さぬといふ私の操守が破れてしまひ、鉄道債券の購入で利益があつたのに味を占め、それが習慣になつて其後あれも大丈夫だらう是も大丈夫だらうなぞと、続々危険なる投機仕事にも手を出し、遂には産を破り、世間の信用をも失ふやうにならぬとも限らぬのである。さうなれば、鉄道債券を投機的に買ひ入れたことにより、一時は利益を得たやうに見えても、永い歳月のうちには結局、利益どころか大きな損をする事になるのみならず、事業の為に他人の金銭を御預りして居る私は惹いて他人様に御迷惑を懸けねばならぬやうな事にもなる。これが、私が必ず利益のあるものと知りつつ、低落した市価の鉄道債券を当時一枚も買はなかつた理由である。
- デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88
底本の記事タイトル:二一七 竜門雑誌 第三三九号 大正五年八月 : 実験論語処世談(一五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第339号(竜門社, 1916.08)
初出誌:『実業之世界』第13巻第13-15号(実業之世界社, 1916.06.15,07.01,07.15)