デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一

9. 西郷、江藤、大久保諸公

さいごう、えとう、おおくぼしょこう

(15)-9

 明治維新の諸豪傑の中で、仁に過ぎて其結果、過失に陥るまでの傾向があつた御人は誰かと申すに、西郷隆盛公なぞが即ち其人であらうかと思はれるのである。明治十年の乱が起つた事なぞも、畢竟、西郷公が部下のもの共に対せられて、余りに仁に過ぎたるの致す所であると申さねばならぬ。西郷公は、飽くまで他人に対するに仁を以てせられた方で、遂に一身をも同志の仲間に犠牲として与へられたので、遂に彼の十年の乱を見る始末となつたのである。木戸孝允公なぞも、仁の方に傾かれた人であるから、木戸公に若し過失があつたとすれば、それは矢張、仁に過ぎるより来たものである。
 江藤新平さんは、西郷公や木戸公とは全然反対の傾向を持たれた人で、これは又忍に過ぐる方であつたのである。江藤さんは他人に接すれば、何よりも先きに、まづ其人の邪悪な点を看破するに力められ、人の長所を見ることなぞは之を後廻しにせられたものである。仁に過ぎるのと忍に過ぎるとの孰れが可いかと申すに、忍に過ぎて過失をする人よりも、仁に過ぎて過失をする人の方が無論よろしからうと思ふのである。孔夫子が論語に於て特に「人の過や各其党に於てす、過を観て斯に仁を知る」と仰せられた所以も、この意を叙べられたるに外ならぬもので、人は仮令過失を致しても、その過失が仁に過ぎたるより起つた質のものであらねばならぬと教へられたものであらうかと存ずるのである。
 大久保公は、西郷公と江藤さんの中間にあつた人で、仁に過ぎず忍に過ぎず、仁半、忍半といふ如き傾向の方であつたのだが、孰らかと申せば、仁よりも寧ろ忍に近い方で、仁四忍六の塩梅であつたかの如くに思はれる。仁五忍五であつたと申上げたいが、什麽も私は爾う申上げかねるやうに思ふのである。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88
底本の記事タイトル:二一七 竜門雑誌 第三三九号 大正五年八月 : 実験論語処世談(一五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第339号(竜門社, 1916.08)
初出誌:『実業之世界』第13巻第13-15号(実業之世界社, 1916.06.15,07.01,07.15)