デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一

12. 三条公茅屋を訪はる

さんじょうこうぼうおくをとわる

(15)-12

 三条実美公は略の無かつたと共に、又定見のなかつた御仁である。斯く申上るは畏れ多いことであるが、三条公は全く無定見の方であらせられた。今日或る者から意見を申上げると、其日は其気になつて居られるが、明日になつて又他の者から違つた意見を申上げると、矢張又その気にならせられる。始終、御自分の御意見はふわふわして孰辺にでもなるといふ具合の方であつたのである。殊に経済上の問題になるとこの無定見が一層甚だしかつたやうに私には想はれたのである。
 三条公は、元来殿上人で公卿の御出身であらせられたから、経済の事などに精通して居られさうな筈もなく、随つて財政上の知識も乏しくあらせられたので、斯く無定見に陥られたものでもあらうが、太政大臣をして居られた頃、太政官の参議の方から、斯く斯くの事業の為に経費を支出するやうにとの御依頼を御受けになれば、それ丈けの支出をするに足る財源の果してあるや否やなどに就ては篤と調査もせられずに、之に承諾を与へてしまつたものである。然しそれが大蔵省の方に廻つて来てから、私等よりとても爾んな事業の為に支出する丈けの財源が無いからとて跳ね付けてしまへば、なるほど其れも尤もだといふ気にならせられたもので、毫も確乎たる定見があつて決裁を与へらるるんでは無かつたのである。随つて三条公は太政大臣の職に在らせらるる間、始終、太政官の参議側と各省の当局者側との間に挟まつて非常に困られて居つたものらしい。
 現に私が、大蔵省に故井上侯の次官の如くになつて勤めて居つた頃の事であるが、三条公は両三度私を神田小川町の茅屋に御訪ね下されたほどである。三条公は当時太政大臣で、昨今で申せば内閣総理大臣である。世間から其の頃の太政大臣は、今日の総理大臣よりも猶ほ重く貴く見られて居つたものであるが、その貴い太政大臣の三条公が大蔵省の一小官に過ぎぬ私の私宅を態々御訪ね下されたのであるから、私も大に恐縮に存じたのであるが、井上侯は大蔵大輔で、如何に太政官からの命でも財源が無いから支出するわけにゆかぬと頑張るに拘らず、太政官の参議方は什麽しても支出させろと太政大臣の三条公に迫るので、三条公は之を井上侯に御相談になると、井上侯は例の気質でそんなに無理を云ふことなら直ぐ辞職してしまふからと騒ぎ出すのに手古摺られ、私へは井上侯を余り騒がせぬやうにしてくれ、井上が騒ぐのみか渋沢まで一緒になつて退くの辞職するのと騒がれては全く困つてしまふから、との御話であつたのである。然し私は断然として無い財源からは如何に御懇談でも支出するわけには参らぬと、明瞭と拒絶を申上げたのであつたが、三条公は万事に斯んな調子で、定見の無かつた為に何時でも甲乙懸争の板挟になつて困られたものである。

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キーワード
三条実美, 茅屋, 訪ふ
デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88
底本の記事タイトル:二一七 竜門雑誌 第三三九号 大正五年八月 : 実験論語処世談(一五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第339号(竜門社, 1916.08)
初出誌:『実業之世界』第13巻第13-15号(実業之世界社, 1916.06.15,07.01,07.15)