デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一

11. 岩倉公は如何なる人か

いわくらこうはいかなるひとか

(15)-11

 幕府と薩州との連衡によつて最も苦しめられたものは素より長州であるが、長州の勢力を国事掛に植ゑて采配を振つて居られた三条公等の位置も、為に頗る危険の状態に瀕し、一命すら危くなりかけて来たので、文久三年八月十八日遂に三条公は東久世通禧卿以下六君の攘夷実行に骨を折つた公卿を率ゐ、相共に、京都を脱走して長州に亡命したのである。一行公卿の数が三条公とも七人であつたので、今日までも「七卿落」として人口に膾炙し、維新の歴史に有名なものになつたのである。そこでこれまで堺町御門の守護を承はつて居つた長州の兵が追ひ払はれて、薩州の兵士が之に代り、堺町御門を警護する事になつたのである。
 三条実美公は、外面の柔和円満なるに似ず、内面には斯く硬骨なところのあらせられた方であるが、略といふものは全く無かつたものである。然し、岩倉具視公は、三条公と違つて却々略に富んだ人であつた。明治維新の鴻業を成就するに当り、表面に立つて主宰せられた方は三条公であるが、実際に於て維新の鴻業を大成し、王政復古の政を施くに最も力を尽くされたものは、岩倉公である。
 三条公以下七卿が長州に亡命し、京都を留守にして居られる間に、岩倉公は皇妹和宮を将軍家茂の御台所として降嫁せしめ、公武合体を計つたといふ科で勅勘を蒙り、洛外に謫居謹慎を命ぜられて居つた身でありながらも、私に諸藩の志士と謀を通じ、従来犬猿も啻ならざる間柄であつた薩州と長州とを妥協せしめ、之に土肥の二藩をさへ加へちやんと維新の膳立を調へあげて置き、それから三条公等を長州より召び戻し、相共に協力して維新の鴻業を大成し、三条公は明治三年に至つて太政大臣になられたのである。然し、岩倉公には三条公よりも略があつた丈け、それ丈け、又維新の鴻業には三条公よりも其実際の功が遥に多かつたのである。

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岩倉具視, 如何,
デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.73-88
底本の記事タイトル:二一七 竜門雑誌 第三三九号 大正五年八月 : 実験論語処世談(一五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第339号(竜門社, 1916.08)
初出誌:『実業之世界』第13巻第13-15号(実業之世界社, 1916.06.15,07.01,07.15)