デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.125-132
子曰。晏平仲善与人交。久而敬之。【公冶長第五】
(子曰く、晏平仲善く人と交り、久ふして之を敬す。)
茲に掲げた章句のうちに挙げられた晏平仲も春秋時代の一名物で、名を嬰と申した斉の大夫であるが、この人には又頗る徳の高いところがあり、能く好んで人と交際せるに拘らず、如何に其交際が永年に亘つても決して之に狎るる如きことなく、恭敬の念を他に対して失はなかつたものである。孔夫子は斯の点に就て晏平仲を御賞めになつたのである。(子曰く、晏平仲善く人と交り、久ふして之を敬す。)
如何に久しい間の交際でも之に狎れず、敬意を失はぬやうにしてゆく事は、処世上に最も大切な点である。然し大抵の人には、少し交際が久しくなると互に敬意を失つて、相狎れるやうになり勝ちの傾向がある。昨日まで刎頸の友であつたものが、今日不倶戴天の仇敵たるが如き観を呈するに至るのは、一に懇意にまかせて敬意を欠き、互に尊敬し合はぬやうになるのが原因である。されば交際が久しくなればなるほど、益々互に敬意を尽くし合ふやうに致すべく、青年子弟諸君に於ては絶えず心懸け居られて然るべきである。
私と大隈侯とは誠に永い間の御交際で、侯は時に私に対はれ「君とは随分久しい間柄だな」と仰つしやることがある。全く以つて其の通りで、明治二年からの御交際である。将に五十年にも垂んとするのであるが、この間、私が大隈侯に対して不満足を感じたことのあるやうに、また先方様とても私に対して不満足に思はれたことも定めしあつたらうと思ふ。私だからとて、時には不行届なこともあつたらうし、先方様が一々よろしい事ばかりであつたといふわけでも無い。私に就いて色々と誤解せられて居つた場合などもあつたやうに思はれる。然し、一時誤解があつたりなどしても、そのうちに事情が判明すれば誤解が消えてしまひ、五十年間、今日に至るまで依然として昔日の交情を維持してゆけるのは、私が久しい間御交際を得て居るのに狎れて、大隈侯に対し敬意を欠く如きことをせず、久しく交つて猶ほ侯を敬して居るからである。又侯とても私に対して敬意を欠くやうな事をなされず、私を敬して下さるのである。これが私が大隈侯と明治二年以来今日に至るまで、親しく御交際申して居られる所以である。私と大隈侯との間に、互に敬し合ふことが無くなつてしまつたら、両人は遠うの昔に仲違ひになつたらうと思はれる。
かく珠算にも達者であり、仕事も敏捷なる上に謹直の性質であつたから、愈よシヤンド氏が銀行の実務を行員に伝習することになるや、私は佐々木氏を抜いて特にシヤンド氏に就き洋式簿記法を習はしめることにしたのである。その結果が又頗る良成績であつたものだから、私は同氏を第一銀行の帳簿課長にしたのであるが、それが又好成績であつたので、支配人心得に昇進することとなり、そのうち支配人が歿したので支配人となり、明治廿九年取締役兼総支配人に選任せられ、遂に今回私が頭取を辞することになつたので同氏が選任せられて私に代り頭取に上任したのである。
崔子弑斉君。陳文子有馬十乗。棄而違之。至於他邦。則曰。猶吾大夫崔子也。棄而違之[違之]。之一邦。則又曰。猶吾大夫崔子也。違之。何如。子曰。清矣。曰。仁矣乎。曰。未知。焉得仁。【公冶長第五】
(崔子、斉君を弑す。陳文子馬十乗あり。棄てて之を違る。他邦に至り則ち曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如しと。之を違る。一邦に之き則ち又曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如しと、之を違る。如何ん。子曰く、清しなり。曰く、仁なるか。曰く、未だ知らず、焉んぞ仁を得ん。)
茲に掲げた章句は、子張と孔夫子との間に交換せられた問答の一節であるが、この章句の意義に就ては従来申述べ置けるうちにも引用して、大要を談話した通りで、その際も一寸申添へたる如く、大槻磐渓先生などは「弑斉君」を「斉君を弑す」と読まずに「斉君を弑せんとす」と読むべきものだと説いて居られる。孰れにしても斉の大夫であつた陳文子が、同じく斉の大夫であつた崔子の、君に対して不軌を企つるを見、斯る人非人と歯ひして暮らすのは己れを潔うする所以に非ずとし、巨万の財産すら之を棄てて斉の国を去つたが、さて何処へ行つて見ても崔子の如き不逞の徒は到る処にあるので、陳文子は始終安んじて一定の国に留まり得なかつた事実を挙げ、斯くの如く行動するのは、果して仁者の行ひだらうかと、子張は孔夫子に問ひ訊されたのである。孔夫子は之に対し、陳文子の行動は如何にも清いには相違ないが、まだ〳〵仁者の行ひであるとは謂ひかねる、陳文子が斯く行動した動機に就いてさへ、批評を加へやうとならば幾らでも批評を加へ得られる余地があると仰せられたのである。(崔子、斉君を弑す。陳文子馬十乗あり。棄てて之を違る。他邦に至り則ち曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如しと。之を違る。一邦に之き則ち又曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如しと、之を違る。如何ん。子曰く、清しなり。曰く、仁なるか。曰く、未だ知らず、焉んぞ仁を得ん。)
主君が悪者に弑せられたから、或は弑されようとしたからとて、之に関はるを避け、陳文子の如く直ぐ其国を去つてしまふといふ如きは武士道を重んずる日本人ならば到底できるもので無い。陳文子が若し日本人であつたとしたら、君の仇思ひ知れとばかりに、かの天王山に明智光秀を討ち信長の為に讐を報じた秀吉の如く、崔子を討つて斉君の為に仇を返してやる気になつたらうと思ふ。懸り合ひになるのを面倒がつてその場から逃げてしまつた陳文子は、実に卑怯未練な男であると謂はねばならぬ。茲に、支那人と日本人との民族気質の差を窺ひ得られるのであるが、同じく支那人でも孔夫子は流石なもので、陳文子が如何にその私財を棄てて之を惜まなかつたにしろ、斯る行動に出でたのを快しとせられたかつたものと見え、「焉ぞ仁を得ん」と仰せられ、陳文子を見るに仁者を以てする事を御許しにならなかつたのである。然し「清し」とだけは仰せられ多少陳文子を賞めて居られる。孔夫子と雖も、生れは支那であるから、幾らか其の民族気質を享けられた結果の言葉なるべく、又致方の無い事である。
一寸稽へると、狷介な人物は明治維新の際の如く社会の動揺が烈しくつて、改革とか革命とかの行はるる時代に現るるもののやうに思へるが、実は爾うで無い。社会が動揺して改革とか革命とかいふものの行はれつつある時代には、如何なる人物でも社会の或る局部に食ひ込んで行つて、その処を得るに足る余地を存するものである。換言すれば、風雲に乗ずべき機会の多いもの故、如何に変つた人物でもそれぞれ其道を得、敢て狷介となるまでに至らずして済むが、社会の秩序が整然と確立せられてしまつて天下が泰平になれば、社会に同化し得る人物で無いと、其間に食い込んで行つて其処を得るのが却々困難になる。変つた人物は社会より排斥せられてしまうから、勢ひ狷介に陥らざるを得なくなるのであるが、社会としては折角贏ち得た秩序を変つた人物によつて壊乱せられるやうでは天下の泰平を乱されることになるので、社会に同化し得られぬ変人を排斥するに至るのも、是亦止むを得ざる次第である。
文政六年(九十三年前)七十五歳で歿した大田南畝は、諧謔の文字を弄し、狂歌師として一生を終つてしまつた男であるが、生れながらの狂歌師では無い。漢学者でもあり、又、経世の識見などもあつてその素志は政治にあつたのである。然し、当時は十一代家斉将軍の時代で、白河楽翁公と称へられた松平定信が幕政に参与し、世に「寛政の政治」と称せらるる施政方針により朱子学を以て天下の安泰を計らうとして居られたので、朱子学に反対した者は如何に非凡の人材と雖も登庸せらるる道の無かつたものである。家康公は儒と仏とを以て治政の方便とし、儒に於ては朱子学を取り、林道春の一家をして之が宗家たらしめたので、家康の頃より既に朱子学に反対する者は勢ひ世に容れられぬ傾向を有して居つたが、元禄時代には伊藤仁斎、物徂徠、太宰春台など、朱子学に反対する古学派を出したほどで、朱子学からの圧迫も寛政の頃ほどでは無かつたが、寛政の頃には楽翁公が朱子学に甚しく執着し、之れ一方で押し通す施政方針を取られたものだから、大田南畝の如き天才すら、全く其驥足を伸すに足る余地無く、為に世と相容れずして狷介高踏し、一世を鼻の端であしらひ、狂歌に身を隠くし、一の蜀山人で終つてしまはねばならなかつたのである。
素行が軍学者となつてしまひ、経世の才を揮ふ政治家となり得なかつたのは、「聖教要録」以来、朱子派の迫害を受け、其の圧迫が甚しく手足を伸すことができなかつたからで、当時幕府に素行を容れるだけの宏量がありさへすれば、定めし政治上に貢献する処が多かつたらうと思はれる。素行に政治家の素質があつて経世の才に富んでたことは、素行が諸侯の如き豪奢の生活を営み、堂々と門戸を張つて居つたのに徴しても之を察するに難からずである。曾て、諸侯の一人が他出の途中で雨に遇つたものだから、素行とは予ね〴〵知合であるところより、素行の邸へ雨具を借りに使者を遣はすと、三百人分の雨具が立処に用意せられたといふ挿話さへ伝へられて居る。これには多少オマケもあらうが、三百人分は兎も角もとして、多人数の雨具が瞬くうちに調つた事は事実と見て差支へがないらしい。余程堂々たる生活を営んで居るもので無ければ、斯くの如き準備を、平生より致して置けるもので無い。この挿話だけによつて見ても、素行が単純なる軍学者を以て終るべき人物で無かつたことは知れる。
総じて安心立命を得て居らぬ人は、何か事件が起つたり変に遇ひでもしたりすれば、直ぐ態度を乱してザワザワ狼狽へだすもので、毫も泰然たるところが無くなつてしまうものである。然し、素行が奉行所よりの差紙に接して些か狼狽の気味さへ無かつたところは、素行に確乎たる安心立命の信念があつた事を明かに語るものである。それほどにしつかりした経世の才に富んだ人物でありながら、素行が猶ほ政治家として立つに足るべき所を得ず、狷介を持して一軍学者を以て終らねばならなかつたのは、当時既に世の中が泰平になり、朱子学によつて社会の安寧秩序が保たれて居つた際とて、之に同化せずして朱子学に反抗した素行は、勢ひ社会より排斥せられ、朱子学派より圧迫を加へられねばならぬ位置に立つを余儀なくされたからである。
季文子三思而後行。子聞之曰。再斯可矣。【公冶長第五】
(季文子三たび思ひて後行ふ。子之を聞て曰く、再びすれば斯に可なり。)
季文子は名を行と申した魯の大夫であつたが、何事にも石橋を叩いて渡るといふ流儀で、三度考へてから後で無ければ決して実行に取りかからぬところより、当時の人々は、季文子を智慮周到の人物なりとて切りに賞めたものである。然し、孔夫子は却つて季文子を果断の勇に乏しき人物なりとして、世間の評判に同意を表されず、凡そ物事といふものは二度も考へればそれで既う沢山だ、強ひて三度迄も考へ直すには及ばぬことだ、と言はれたのである。茲に掲げた章句を文字通りに解釈すれば、斯ういふ意味になるのであるが、二度とか三度とかいふ文字に拘泥しては、却つて孔夫子の御真意が了解ら無くなつてしまう恐れがある。(季文子三たび思ひて後行ふ。子之を聞て曰く、再びすれば斯に可なり。)
総じて世の中の物事には、三思しても猶ほ足らず、十思百思を必要とするものもあれば、又再思の必要だに無く、考へたら直に実行せねばならぬこともある。孟子も説いて居らるる如く、子供が井戸に落つるのを見れば直に惻隠の情が起つて来るが、惻隠の情が起つたら直ぐ之を救う為に駈けつけねばならぬのが人間の道である。救つたら可いだらうか、何うだらうかと、一思の余地さへ其間にあつてはならぬ。君父の難に赴くに当つても亦然りで、難を知つたら、直に之に赴かねばならぬものである。咄嗟の事変に対しては、咄嗟の間に之に処するだけの心懸は平常より之を養つて置かねばならぬものである。然し一身の将来に関する如き問題に就ては、決して之を咄嗟の間に決すべきもので無い。考慮に考慮を重ねて十思したる上、漸くにして之を決する程にせねばならぬものである。私は及ばずながら今日までこの方針で物事を決することにして来たのである。然し、決断の優れた人物になるのは、決して容易の業で無い。大人物にして初めて決断の優れた人物に成り得られるもので、下手に平々凡々の人物が裁決流るるが如しと云ふやうな真似をすれば、却つて飛んでも無い失敗を招くことになるが、私は今日までに読んだり聞いたりして居る古来の人物のうちで、決断の明快で而も道を過らなかつた大人物として、戦国時代で太閤秀吉、泰平の時代に入つては水戸義公、それから下つて徳川慶喜公を推さんとするものである。
秀吉が斯く咄嗟の間に光秀誅伐の意を決して、毛利輝元と和議を調へたのは、信長が歿くなつた後を自分で引受けてやらうとの野心から出たものでなく、君父の仇は倶に天を戴かずとの誠実から光秀を一途に主君の仇であると思い込み、何んでも彼んでも主君の仇は報ぜねばならぬとの考へから、一思にも及ばず直に光秀を討たうとの決意から軍を中国より引つ還へしたものらしいが、柴田勝家には此の決断が無かつたので遂に秀吉に亡ぼされてしまはねばならぬやうになつたのである。勝家に若し秀吉と同じ明快な決断力があつたとしたら、本能寺の変を聞くや直に駈けつけて光秀を討つべき筈のものである。然るに勝家は徒に形勢を観望して、若しや将来明智の天下になりもやせぬかなどと心配し、浮つかり今なまなかに手出しなんかして光秀に怨れでもしたら取り返しがつかなくなるなぞと考へたりなぞして、君父の仇は倶に天を戴かずとの義烈の精神を欠いて居つたものだから秀吉に功名を挙げられ、天下を取られてしまふことになつたのである。然るに自分の不徳不決断より、事の茲に至れるを恥づる模様も無く、秀吉に天下の権を握られてしまつて、自分が我儘のできぬやうになつたのを不快に思ひ、自分の到らぬを責めずして漫りに秀吉を恨み、且つ其間に誠意の無い策略を弄するに至つたものだから、遂には賤ケ岳の合戦ともなり、五十四歳を一期として城に火を放ち、天主閣に登つて自殺を遂げねばならぬまでの悲運に陥つたのである。然し、流石の秀吉も晩年に至つては、稍々優柔不断に流るる弊に陥つた嫌ひのあつたものらしく見受けられる。これには年齢の加減もあるだらうが、猶ほ次回に於て私の観たところを詳細に述べることに致す積りである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.125-132
底本の記事タイトル:二二九 竜門雑誌 第三四四号 大正六年一月 : 実験論語処世談(二〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第344号(竜門社, 1917.01)
初出誌:『実業之世界』第13巻第23,24号(実業之世界社, 1916.11.15,12.01)
底本の記事タイトル:二二九 竜門雑誌 第三四四号 大正六年一月 : 実験論語処世談(二〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第344号(竜門社, 1917.01)
初出誌:『実業之世界』第13巻第23,24号(実業之世界社, 1916.11.15,12.01)