デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一
2. 佐々木勇之助氏を敬す
ささきゆうのすけしをけいす
(20)-2
此度、私に代つて第一銀行頭取に就任致した佐々木勇之助氏と私との間柄に対して、世間では「オイ……何うだ?」なんかといふやうな言葉を私が佐々木氏に向つて日夕使つてでも居るかのやうに想像せらるるやも計り難いが、決して爾んな事は無い。私が佐々木氏を知るやうになつたのは明治六年、第一国立銀行の事業を始めた当時のことでそれ以来殆ど毎日の如くに互に顔を見合はせるのであるが、私は佐々木氏に対して決して敬を失ふやうな事を致さず、言葉遣ひなども至極丁寧に致して、毎日遇ふ毎に互に恭しく敬礼を取り交し、「相変らずお早くつて……今日は御天気で結構で……」とか、「変りがなくつて結構で厶います……」とかと、丁寧に挨拶し合つてから後に用談に取りかかることに致して居る。これは今日でも猶ほ廃めぬのである。又佐々木氏の方でも決して私に対し敬意を欠いて狎れる如き態度に出でず、私が二三日ばかりの旅行から帰つて来て始めて同氏に遇ひでもすれば「昨日御帰京になつたさうで……御障りも無く結構な事で……」と謂つたやうな風に恭しく同氏から挨拶をする。私と佐々木氏とが斯く敬し合つて礼儀を乱さず、互に恭々しく挨拶を取り交して居るのを傍で見たら、両人の間を知らぬ他人は、私と佐々木氏とが四十余年も毎日顔を突き合して事業を共にして来た肝胆相照の間柄であるなぞとは夢にも想はず、漸く昨今知合になつた間柄の者であるとしか想へぬだらう。然し佐々木氏と私とが明治六年以来今日まで事業を共にして交情に些かの変動だに無きを得たのは、斯く互に敬し合つて礼儀を乱さず、交り久うして之を敬する事を一日たりとも廃しなかつたからの賜である。
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- デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.125-132
底本の記事タイトル:二二九 竜門雑誌 第三四四号 大正六年一月 : 実験論語処世談(二〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第344号(竜門社, 1917.01)
初出誌:『実業之世界』第13巻第23,24号(実業之世界社, 1916.11.15,12.01)