4. 日本気質と支那気質
にほんきしつとしなきしつ
(20)-4
崔子弑斉君。陳文子有馬十乗。棄而違之。至於他邦。則曰。猶吾大夫崔子也。棄而違之[違之]。之一邦。則又曰。猶吾大夫崔子也。違之。何如。子曰。清矣。曰。仁矣乎。曰。未知。焉得仁。【公冶長第五】
(崔子、斉君を弑す。陳文子馬十乗あり。棄てて之を違る。他邦に至り則ち曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如しと。之を違る。一邦に之き則ち又曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如しと、之を違る。如何ん。子曰く、清しなり。曰く、仁なるか。曰く、未だ知らず、焉んぞ仁を得ん。)
茲に掲げた章句は、子張と孔夫子との間に交換せられた問答の一節であるが、この章句の意義に就ては従来申述べ置けるうちにも引用して、大要を談話した通りで、その際も一寸申添へたる如く、大槻磐渓先生などは「弑斉君」を「斉君を弑す」と読まずに「斉君を弑せんとす」と読むべきものだと説いて居られる。孰れにしても斉の大夫であつた陳文子が、同じく斉の大夫であつた崔子の、君に対して不軌を企つるを見、斯る人非人と歯ひして暮らすのは己れを潔うする所以に非ずとし、巨万の財産すら之を棄てて斉の国を去つたが、さて何処へ行つて見ても崔子の如き不逞の徒は到る処にあるので、陳文子は始終安んじて一定の国に留まり得なかつた事実を挙げ、斯くの如く行動するのは、果して仁者の行ひだらうかと、子張は孔夫子に問ひ訊されたのである。孔夫子は之に対し、陳文子の行動は如何にも清いには相違ないが、まだ〳〵仁者の行ひであるとは謂ひかねる、陳文子が斯く行動した動機に就いてさへ、批評を加へやうとならば幾らでも批評を加へ得られる余地があると仰せられたのである。(崔子、斉君を弑す。陳文子馬十乗あり。棄てて之を違る。他邦に至り則ち曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如しと。之を違る。一邦に之き則ち又曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如しと、之を違る。如何ん。子曰く、清しなり。曰く、仁なるか。曰く、未だ知らず、焉んぞ仁を得ん。)
主君が悪者に弑せられたから、或は弑されようとしたからとて、之に関はるを避け、陳文子の如く直ぐ其国を去つてしまふといふ如きは武士道を重んずる日本人ならば到底できるもので無い。陳文子が若し日本人であつたとしたら、君の仇思ひ知れとばかりに、かの天王山に明智光秀を討ち信長の為に讐を報じた秀吉の如く、崔子を討つて斉君の為に仇を返してやる気になつたらうと思ふ。懸り合ひになるのを面倒がつてその場から逃げてしまつた陳文子は、実に卑怯未練な男であると謂はねばならぬ。茲に、支那人と日本人との民族気質の差を窺ひ得られるのであるが、同じく支那人でも孔夫子は流石なもので、陳文子が如何にその私財を棄てて之を惜まなかつたにしろ、斯る行動に出でたのを快しとせられたかつたものと見え、「焉ぞ仁を得ん」と仰せられ、陳文子を見るに仁者を以てする事を御許しにならなかつたのである。然し「清し」とだけは仰せられ多少陳文子を賞めて居られる。孔夫子と雖も、生れは支那であるから、幾らか其の民族気質を享けられた結果の言葉なるべく、又致方の無い事である。
- デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.125-132
底本の記事タイトル:二二九 竜門雑誌 第三四四号 大正六年一月 : 実験論語処世談(二〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第344号(竜門社, 1917.01)
初出誌:『実業之世界』第13巻第23,24号(実業之世界社, 1916.11.15,12.01)