デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一

6. 山鹿素行は政治家

やまがそこうはせいじか

(20)-6

 赤穂浪士復讐のことから一層世に名を知らるるやうに相成つて居る山鹿素行は、今では一の軍学者を以て目せらるる事になつて居るが、これとても決して単純なる軍学者では無かつたのである。素行は其初め程朱の学に心酔し、「治教要録」「修養要録」等を著し、切りに朱子学を祖述したものだが、後に至り程朱の説を飽き足らなく思ひ出し、理気心性の説に疑ひを懐くやうになり、これまでの著書を悉く焼いてしまつて絶版し、更に「聖教要録」を著し、宋儒の学説を排駁し、かの論語雍也篇にある「博く民に施して能く衆を済ふ」のが、是れ儒教の要諦で、孔夫子の真意が政治にありし所以を論じ、澆季の儒学者が徒に宋儒の糟粕を嘗めて、儒教の趣旨を教育のみにあるかの如く誤解し、経世に意を注がざるを罵るやうになつてしまつたのである。之に対し、幕府の儒官たる林家より猛烈な抗議が持ち出されたので、素行は其の天稟の才を経世に施す道が無くなつてしまつたのみか、遂に寛文六年(二百五十年前)この「聖教要録」によつて罪を得、播州赤穂に幽謫せらるる身となつたのである。当時の赤穂侯は恰度かの内匠頭長矩の祖父に当る直雅で、曾て素行に師事し、食禄千石で九年間も素行を召抱へて居られた関係もあり、旁々幽謫といふのは名ばかりで、直雅侯は素行を待つに貴賓の礼を以てしたものである。その頃大石良雄は僅に八歳ばかりであつたのだから、浪花節なんかで読まれる「大石山鹿送り」の段は全く後世戯作者の虚構に過ぎぬのである。素行も直雅侯の自分に対する待遇を頗る満足に思ひ、赤穂は実に居心地の快い土地であると話したさうだが、曩に聘せられて赤穂に九ケ年間在留し、後に幽せられて十年間謫居の間に於てその精神を赤穂の藩士に伝へたので、それが長矩の刃傷事件より元禄快挙となつて顕はれたものである。
 素行が軍学者となつてしまひ、経世の才を揮ふ政治家となり得なかつたのは、「聖教要録」以来、朱子派の迫害を受け、其の圧迫が甚しく手足を伸すことができなかつたからで、当時幕府に素行を容れるだけの宏量がありさへすれば、定めし政治上に貢献する処が多かつたらうと思はれる。素行に政治家の素質があつて経世の才に富んでたことは、素行が諸侯の如き豪奢の生活を営み、堂々と門戸を張つて居つたのに徴しても之を察するに難からずである。曾て、諸侯の一人が他出の途中で雨に遇つたものだから、素行とは予ね〴〵知合であるところより、素行の邸へ雨具を借りに使者を遣はすと、三百人分の雨具が立処に用意せられたといふ挿話さへ伝へられて居る。これには多少オマケもあらうが、三百人分は兎も角もとして、多人数の雨具が瞬くうちに調つた事は事実と見て差支へがないらしい。余程堂々たる生活を営んで居るもので無ければ、斯くの如き準備を、平生より致して置けるもので無い。この挿話だけによつて見ても、素行が単純なる軍学者を以て終るべき人物で無かつたことは知れる。

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山鹿素行, 政治家
デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.125-132
底本の記事タイトル:二二九 竜門雑誌 第三四四号 大正六年一月 : 実験論語処世談(二〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第344号(竜門社, 1917.01)
初出誌:『実業之世界』第13巻第23,24号(実業之世界社, 1916.11.15,12.01)