デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一

5. 大田蜀山人は狷介の人

おおたしょくさんじんはけんかいのひと

(20)-5

 これまでも申述べ置ける如くで、仁の本旨は単に己れを清うするとか、或は潔ふするとかいふにあるのでは無い。孔夫子が管仲を評せられた語に徴しても明かなる如く、済世救民の道を実地に講ずるのが、是れ実に仁の本体である。然るに陳文子は独り己れを清うするにのみ急で、崔子の如き不逞の徒が跋扈する為に斉の国の政治が乱れるのを見ても、之を済はうともしなかつたのである。孔夫子が陳文子に仁を許さず、同人を多少責めるやうな語気を漏らされたのは実に之が為めである。かく陳文子に対する批評を見ても略々知り得られるる如く、孔夫子は狷介にして世と相容れぬ人へは余り同情を寄せられなかつたものである。人間は単に己れを清ふするだけでは駄目なものであるとの御心があらせられたからの事だらうと思ふ。
 一寸稽へると、狷介な人物は明治維新の際の如く社会の動揺が烈しくつて、改革とか革命とかの行はるる時代に現るるもののやうに思へるが、実は爾うで無い。社会が動揺して改革とか革命とかいふものの行はれつつある時代には、如何なる人物でも社会の或る局部に食ひ込んで行つて、その処を得るに足る余地を存するものである。換言すれば、風雲に乗ずべき機会の多いもの故、如何に変つた人物でもそれぞれ其道を得、敢て狷介となるまでに至らずして済むが、社会の秩序が整然と確立せられてしまつて天下が泰平になれば、社会に同化し得る人物で無いと、其間に食い込んで行つて其処を得るのが却々困難になる。変つた人物は社会より排斥せられてしまうから、勢ひ狷介に陥らざるを得なくなるのであるが、社会としては折角贏ち得た秩序を変つた人物によつて壊乱せられるやうでは天下の泰平を乱されることになるので、社会に同化し得られぬ変人を排斥するに至るのも、是亦止むを得ざる次第である。
 文政六年(九十三年前)七十五歳で歿した大田南畝は、諧謔の文字を弄し、狂歌師として一生を終つてしまつた男であるが、生れながらの狂歌師では無い。漢学者でもあり、又、経世の識見などもあつてその素志は政治にあつたのである。然し、当時は十一代家斉将軍の時代で、白河楽翁公と称へられた松平定信が幕政に参与し、世に「寛政の政治」と称せらるる施政方針により朱子学を以て天下の安泰を計らうとして居られたので、朱子学に反対した者は如何に非凡の人材と雖も登庸せらるる道の無かつたものである。家康公は儒と仏とを以て治政の方便とし、儒に於ては朱子学を取り、林道春の一家をして之が宗家たらしめたので、家康の頃より既に朱子学に反対する者は勢ひ世に容れられぬ傾向を有して居つたが、元禄時代には伊藤仁斎、物徂徠、太宰春台など、朱子学に反対する古学派を出したほどで、朱子学からの圧迫も寛政の頃ほどでは無かつたが、寛政の頃には楽翁公が朱子学に甚しく執着し、之れ一方で押し通す施政方針を取られたものだから、大田南畝の如き天才すら、全く其驥足を伸すに足る余地無く、為に世と相容れずして狷介高踏し、一世を鼻の端であしらひ、狂歌に身を隠くし、一の蜀山人で終つてしまはねばならなかつたのである。

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大田南畝, 狷介,
デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.125-132
底本の記事タイトル:二二九 竜門雑誌 第三四四号 大正六年一月 : 実験論語処世談(二〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第344号(竜門社, 1917.01)
初出誌:『実業之世界』第13巻第23,24号(実業之世界社, 1916.11.15,12.01)