デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一

3. 佐々木勇之助氏の出身

ささきゆうのすけしのしゅっしん

(20)-3

 佐々木勇之助氏の兄の佐々木慎思郎氏は西周氏の門に入つて仏蘭西学を修めた人であるが、勇之助氏は或は少しばかり英学を修めたことがあるかぐらゐのもので、これといふほどの学校の出身者ではない。旧幕臣で五千石の麾下であつた浅野美作守の家来に当るものの息子であつたのだが、私が明治六年第一銀行を開業した際に銀行の方へ特に入れたのでは無いが、政府の為替金を取扱ふ御用方へ算筆の掛として入つて居られた人である。当時、第一銀行には四五十名の行員があり中には学校関係の出身者もあつたが、佐々木勇之助氏はその間に立ち交つて、頗る敏捷に立ち働くのみならず、又甚だ謹直であつて、成績が学校関係の人々よりも遥に良好であつたものだから、私は数の多い行員中より、特に佐々木氏に眼をつけたのである。佐々木氏は又珠算にかけては珍らしい技倆を持つた人で、銀行の実務を行員に伝習させる為め招聘した元横浜の東洋銀行の書記であつた英人シヤンド氏が切りに筆算の利益を挙げ、珠算の不利を説いた際に、論より証拠だと云ふのでシヤンド氏の筆算と珠算の方からは佐々木氏が出て実地計算の遅速を競争したこともあるが、その時にも佐々木氏が勝つて、シヤンド氏は珠算は読み手と算手と二人がかりだから勝つのは当然だなぞと敗け惜みを言つたほどのものである。
 かく珠算にも達者であり、仕事も敏捷なる上に謹直の性質であつたから、愈よシヤンド氏が銀行の実務を行員に伝習することになるや、私は佐々木氏を抜いて特にシヤンド氏に就き洋式簿記法を習はしめることにしたのである。その結果が又頗る良成績であつたものだから、私は同氏を第一銀行の帳簿課長にしたのであるが、それが又好成績であつたので、支配人心得に昇進することとなり、そのうち支配人が歿したので支配人となり、明治廿九年取締役兼総支配人に選任せられ、遂に今回私が頭取を辞することになつたので同氏が選任せられて私に代り頭取に上任したのである。

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佐々木勇之助, 出身
デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.125-132
底本の記事タイトル:二二九 竜門雑誌 第三四四号 大正六年一月 : 実験論語処世談(二〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第344号(竜門社, 1917.01)
初出誌:『実業之世界』第13巻第23,24号(実業之世界社, 1916.11.15,12.01)