9. 秀吉と柴田勝家
ひでよしとしばたかついえ
(20)-9
秀吉が斯く咄嗟の間に光秀誅伐の意を決して、毛利輝元と和議を調へたのは、信長が歿くなつた後を自分で引受けてやらうとの野心から出たものでなく、君父の仇は倶に天を戴かずとの誠実から光秀を一途に主君の仇であると思い込み、何んでも彼んでも主君の仇は報ぜねばならぬとの考へから、一思にも及ばず直に光秀を討たうとの決意から軍を中国より引つ還へしたものらしいが、柴田勝家には此の決断が無かつたので遂に秀吉に亡ぼされてしまはねばならぬやうになつたのである。勝家に若し秀吉と同じ明快な決断力があつたとしたら、本能寺の変を聞くや直に駈けつけて光秀を討つべき筈のものである。然るに勝家は徒に形勢を観望して、若しや将来明智の天下になりもやせぬかなどと心配し、浮つかり今なまなかに手出しなんかして光秀に怨れでもしたら取り返しがつかなくなるなぞと考へたりなぞして、君父の仇は倶に天を戴かずとの義烈の精神を欠いて居つたものだから秀吉に功名を挙げられ、天下を取られてしまふことになつたのである。然るに自分の不徳不決断より、事の茲に至れるを恥づる模様も無く、秀吉に天下の権を握られてしまつて、自分が我儘のできぬやうになつたのを不快に思ひ、自分の到らぬを責めずして漫りに秀吉を恨み、且つ其間に誠意の無い策略を弄するに至つたものだから、遂には賤ケ岳の合戦ともなり、五十四歳を一期として城に火を放ち、天主閣に登つて自殺を遂げねばならぬまでの悲運に陥つたのである。然し、流石の秀吉も晩年に至つては、稍々優柔不断に流るる弊に陥つた嫌ひのあつたものらしく見受けられる。これには年齢の加減もあるだらうが、猶ほ次回に於て私の観たところを詳細に述べることに致す積りである。
- デジタル版「実験論語処世談」(20) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.125-132
底本の記事タイトル:二二九 竜門雑誌 第三四四号 大正六年一月 : 実験論語処世談(二〇) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第344号(竜門社, 1917.01)
初出誌:『実業之世界』第13巻第23,24号(実業之世界社, 1916.11.15,12.01)