1. 秀吉の対家康策
ひでよしのたいいえやすさく
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慶長三年七月、秀吉、自らの疾篤きを知るや、自分の死後能く天下を一統して其安泰を計り得るものは徳川家康を措いて他に其人無しと看て取つたものだから、早速家康を召し寄せ「天下の後事は宜しく貴卿に御任せ申上げる。又、幼子秀頼の儀も宜しく御頼み申す」と懇々家康に頼み入つたのであるが、聡明にして万事に抜目の無い家康のこととて、秀頼には淀君といふ厄介な風鈴の付いてる事情を知つてたので、直ぐに秀吉の委嘱を引受けて受諾の意を言明するやうな事をせず「不才重任に適せぬから」と称してうまく辞退してしまつた。それでも猶ほ秀吉にして飽くまで家康に後事を托したいとの決意があつて、頑として動かず、更に進んで家康に頼み込み、淀君、秀頼をも家康に引き合せ「後事は総て家康に托したから我が亡き後は家康を秀吉なりと心得、何事にも家康の命に聴けよ」と申渡して置きでもしたら、如何に秀吉の没後とても、豊臣家はあんな悲惨な末路を見ずして済んだらうと思はれる。
然るに流石の秀吉も、晩年には之れ丈けの処置に出でる決断力が無くなつてしまつてゐたので、家康に全く後事を托してしまうのも何んとなく心配なやうに思はれ、其処に愚痴が手伝つたものだから、家康が辞退したのをそのままにして、奉行五人、大老五人を置き、合議制によつて秀吉歿後の天下を差配させることにしてしまつたので、秀吉が歿くなつた後では淀君が彼是れと我意を張つて我儘を募らせ、大勢の趨く処に反抗して家康を侮蔑し、其極、賢明なる片桐且元の調停をも却け、家康に対して戈を取るやうになつたので遂に大阪の落城となり、豊臣家は徳川に滅ぼされてしまつたのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(21) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142
底本の記事タイトル:二三一 竜門雑誌 第三四五号 大正六年二月 : 実験論語処世談(二一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第345号(竜門社, 1917.02)
初出誌:『実業之世界』第13巻第25号,第14巻第1号(実業之世界社, 1916.12.15,1917.01.01)